31.水の確保と入浴
水のことを、ロッシャ語で「ワダー」といった。
…一生忘れられない単語…
第14大隊の給与の悪かったことは、どこの収容所とも共通していたことであった。ただ一つ、よいことに収容所の周辺の露地を掘ればいくらでも石炭が入手できたので、暖房用としての、ペーチカの石炭だけはそれこそ無制限に使用できた。そのことは、他の収容所よりも、それだけでも恵まれていた。
ペーチカの石炭掘り作業は収容所の見張り台から見えるため、警戒兵もついてこなかった。
収容所の営門の開いている限り、この石炭運搬の【そり】だけは出入りが自由。
そのかわり、ここでは【水】に関する限り、不便とか不自由とかを通り越していた。
収容所内で使用する水は、町からロスケの老人みたいなのが夜明けとともに牛車で運んできた。
牛車には大きなビール樽のような樽が2つ積みこんであった。たった2つの樽の水で、1500名の日本兵の用水確保ということはとうてい無理なこと。
この水は炊事専用の水。
一般の中隊の兵には一滴も回ってはこなかった。
…飲事で使った余りがあれば一般の中隊にも回すという宜伝だけはあった…
中隊では、死者があった時にその体を拭くための水が、水嚢(ズック製の折りたたみ式のバケツのこと)に1杯だけ特配になっていたが、やがての程、死体を屋内に安置しなくなるとともに、この水の特配も中止になった。
その水の確保は本部でも考えてはいたようだが、すぐ近くに水源がないためどうにもならなかった。
そのため、水については各分隊でそれぞれいろいろ方法を考えた。
「ガダラ」の第6大隊の前を通過することの分っている使役に出る場合には、いつも水筒を2本以上持って出て、水をみやげにした。第6大隊は、もとは学校であったのを病院と兵舎に兼用で使用していた。その学校の前には給水の地設があった。
ソ連の地方人もバケツで水を汲みに集っていることもあった。それらのソ連の地方人は、私達が近よっていくと水汲みということの察しがつくのか、たいていの場合、先に順を譲ってくれ、好意らしいものをみせた。彼等は日本人に特に好奇心を示すようなことはなかった。
こんこんと湧き出る内地の谷川の水、昭和14年の大かんばつの時でさえも川底を見せなかった清滝の流(久手町、江谷の山奥、高さ25mの滝)県立大田中学校より1里(約4km)の道を歩いて帰り、鞄も降さずに台所まで行き、丼で息もつかず飲み干していた我が家の夏の、汲みたての井戸水。思い浮かんでくる【水】は故郷のことばかり。
1日に1回あったり、なかったりしていた水の配給…1個分隊10名について、飯盒で1本か2本の水。飯盒1本というのは、満タンにすると1升2合入れることができた。これが1日中の分隊員の飲料用や食器洗い用の水。これでは水の不足どころか最初から水は無いものと同じこと。
飯盒1本=1個のこと。兵の間では飯盒1本で通じていた。
薬にしかならない配給の水だけに頼るわけにはいかないので、私達も自衛のため雪を溶かして水を作るということもした。
これは、思いつきとしてはそう悪い方法とは思えない。だが、でき上がった水は真っ黒で、それでは顔どころか足でさえも洗えないような汚水だった。
真っ白な雪を飯盒に押しこみ、叩きこみ、それをペーチカの鉄板の上において雪を溶かした。飯盒3本の雪で、1本の8分目ぐらいの水ができた。
ガーゼで、まだ熱くない時にこしてみると、石炭の粉末のような、ざらざらした粒子のようなものが残った。ペーチカのばい煙が交っているためだといわれていた。
割り合いによく水がとれるというので誰からもよく狙われたのは「つらら」だった。
兵舎の軒下にずらりと並んでいる2尺、3尺(60cm~1mぐらいもあった)ぐらいの「大つらら」を夜間でもよく取りにでかけた。
少しでも塵をつけまいと、「つらら」1本をタオルに巻いて水嚢に入れるという、いじらしいまでの丁寧さで水を作った。
食糧の不足、聞いたこともない極寒、慣れない異国の屋外作業、体力の低下、祖国の大敗。その上、更に【水】の無いこと。それらのどれ一つとりあげても、あまりにもみじめな実態が、過去の生活すべてをきれいさっぱりと夢のように消し去ってしまった。
水がないためと、労働につかされる関係から、私的な時間を大巾に奪われた。私的洗濯なんかは思いもよらず、同じ分隊の兵が入室した場合には、その患者の被服の洗濯には、不寝番に立った者が「つらら」や雪を溶かして洗濯用水を作ったりした。
また、作業免除で就寝許可をもらっている者までも、(※夜勤した翌日はこの特典があった)ペーチカの上の飯盒の見張りをして水を作った。
ちょっとした油断から飯盒の水を盗まれるということは、そう珍らしいことではなかった。
※夜勤
製材所で材木を貸車より降ろす作業は、いつも予測はなく、貸車が入った時に自由にかり出されていた。
この作業は、昼とか夜とかの区別はなかった。
それでも、暗夜の光明みたいなことがあった。
それは、日曜日には作業がなく、水作りができ、また、10日に1回の割り合いで入浴ができたことであった。
この入浴というのは、一般市民の使っている大浴場を、2日間とか3日間とかの間貸り切って使うという方法だった。
1回に入浴できる人数は50名。
入浴の際には、着ていた被服を各人ごとにそっくりまとめ、それを蒸気で滅菌消毒することになっていた。
その消毒の時間が1時間かかるため、1組の入浴時間は1時間。
1時間も風呂に入るというと大変なことのようだが、そこはよくしたもので日本とは異なった浴場だった。中央には、畳1枚ぐらいの大きさの大理石の台が3列にきちんと並んだ屋体ぐらいの広い部屋の壁ぎわに、2本の太いパイプが通してあった。そのパイプの1本が水で、もう1本が熱湯の出るパイプだった。
つまり、日本のように湯の中に入るのではなく、熱湯に、自分で水を足して湯の温度を調節して体を洗う方式の入浴場であった。
シャワーもあった。それよりも、ここでは蒸し風呂があって、それが人気の的だった。
蒸風呂というのは、入口は1間で1個所内部は薄暗く、天井には裸電球の小さいのが1つあっただけの板張り、窓のない大部屋。入口は狭いが内部は割と広かった。
木製の階段が作ってあって、上にいくほど熱かった。
入ってしばらくすると、体中から汗が流れでて、指でこするだけでもその汗とともに垢がきれいに落ちた。
ふんだんに使える湯と水で、10日分の垢落し(ウロコ落しともいっていた)と、洗濯、水筒に湯を入れた。また、タオルやマスクなどのように大きくないものは、湯の通るパイプの上で乾燥させた。
そして、ここの大理石の台の上で「毛じらみ」の駆除と予防のため、頭髪も、ひげも、毛も、収容所から出張してきていた経理部の散髪班員に全部そられた。
入浴の時間帯によってはソ連の一般人もきていた。入浴場には蒸気を利用した滅菌消毒の施設が併設されていた。どうやら「しらみ」は、日本兵だけが不潔な生活をしているためにそれを大事に温存しているわけではなく、ソ連の一般市民も「しらみ」を保有しているようだった。
その「しらみ」の駆除は、この蒸気の高温滅菌が1番よいようだった。
入浴で一つだけ困ったのは、貸し切りの期限内に全員の入浴を終了させられるため、夜の1時か2時頃に集合がかかるかと思えば、食事の寸前に伝令が駆けこんできたりしたことである。
時には、作業に出るため営門のところまで行っていて、入浴のため作業の取り消しがあったこともあった。
町の入浴場までの往復には、必ず、行く隊と帰る隊とに出合った。
「今日の湯は熱いぞ。」
…湯の温度は手もつけられないほど熱い時と、そうでもない時があった。
「歩哨に気をつけろ。」
…よく入浴場で隠し持っていた貴重品などを発見され、没収された。
「12時(夜の12時のこと)以降の入浴者は、明日、午前中は作業免除になったぞ。」
など、その行き帰りのすれ違いの際に、お互いに情報の伝達をしていた。
12月になると、中隊より水汲みの使役が出て、市民の使っている給水の施設まで水受領に行くようになり、割合に水が使えるようになった。( 2-3 に記載)
それでも、顔まで洗う水はなかった。
さらに昭和21年3月頃からは、収容所の中に入浴場、洗濯場などを作るだけの資材と水運搬の便が整った。
このことは、日本兵を、いよいよ製材所や炭鉱で、ノルマをもった本作業にかからせる態勢が着々と進行していることを示している。