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6.昭和20年8月12日夜 日の出山の下山準備


*中央上
 お守りを中に収めていたお守りさん袋
 中のレンズは三合里収容所洗濯場より掘り出した
 煙草の火つけに使用していた

*中央下
 貴重品袋
 木製印鑑
 子供の時に小野医院でもらった英国製の缶



 午後、大隊全員集合とのこと、定刻に走って集合位置に行くと、10中隊長藤川中尉が、「我々はこれより新京方面に前進する予定である。しかし、周囲の状況により、ゆくゆくは、玉砕する覚悟である。各自、不用品一さい処分せよ。」と、これだけを簡単に、2回、続けて読みあげた。
 整列して、立ったまま、1級の煙草「天壇テンダン」と、瓶のままの日本酒を分配されて最後の別離の宴をはり、駆け足で自分のトーチカに帰った。

 各人毎に遺書、遺愛や時計、万年筆、幹部候補生願書などの貴重品類やら、石鹸、タオルなどの日用品一さい風呂敷に包んだ。それを毛布や天幕にくるんだが、私の分隊だけでも大きな包みが2個もあった。
 荷物ができると、すぐに穴を掘り埋めた。
 私の手に残った私物は、師道大学の官舎の奥さんに作ってもらった羽二重の貴重品袋、お守りさん、財布、印鑑、小供の時に小野医院でもらったイギリス製の煙草の空缶(巻き煙草が11本入り、雨にあっても濡れなかった。星がたくさんついており、きれいな缶だったが、年月とともに錆びてがらがらになってしまった)、そして国旗1流、箸、鼻紙だけであった。

 擲弾筒の弾薬、米やら乾麺包(携行用の固いビスケットのようなもの。非常用の食品で、大隊長以上の上官の指示がないと手をつけてはいけないとされていた)などの糧秣のために、背囊はぎっしりとつまっていて重く、腰には手榴弾を2個とロープ、紐で結んだナイフ、それに、「いつも軽くしておかないと、行軍する時に腰にかかってきていけない。」と言われていた雑囊(斜めに肩にかけていたズック製の肩鞄。便利のよい搬送用具だった)でさえも、各種の現品で一杯だった。
 日の出山には、各種の弾薬も糧秣も充分に蓄積されていたので、9日の夜、五叉溝ウサコウの兵舎を出る時の2倍3倍もの重い装具になっていた。2時間も3時間も、ゆっくりと出発準備する余裕はあったが、この重さだけはどうにもならなかった。

 おまけに、トーチカの隅に積んであった1尺四方(30cm四方)に、5寸ぐらいの高さ(15cm)の木箱で、真中に小さい穴があけてあって、手榴弾の信管部分がその穴より出してある即製の戦車地雷とかも、1個分隊に1個の割で運ぶことになっていた。銃のない者がそれを、交代交代で持っていくことになった。( 1-41 参照)
 この木箱の中には、ダイナマイトがぎっしりつめてあった。手榴弾は1個で、それはダイナマイトを爆発させるための信管の代用品だった。
 この戦車地雷は、人間が、戦車に肉薄し、手榴弾の信管の安全弁(小さい針金のようなものだった)を抜き、そのまま戦車に体当りをしてその効果があるというしろものであった。これを運ぶ時には、首から白い紐を垂らし、その紐に結んで両腕でそれを支えて歩いていたから、そのかっこうが、ちょうど遺骨箱を護送する姿そっくりだった。そのため、これは別名『遺骨箱』と呼んでいた。
 この、「遺骨箱」とは別に、小隊に1個ではあったが、兵の間では『カンパン』と呼んでいた、皮革製のサックに包まれていた円盤のような形をした制式の戦車爆雷の運搬も負担させられていた。
 「遺骨箱」の方は、1晩だけ分隊内で交代して搬送したが、1夜明けてから、小隊で1個の「遺骨箱」の運搬になっていた。
 名実共だった「遺骨箱」といい、「カンパン」といい、敵の戦車に肉薄しなければならないことは同じだった。
 「カンパン」の方は、これを、動いている戦車の、キャタピラの下にかみ合わさせるという代物シロモノであった。「カンパン」の取り柄は、型が小さいのと、軽くて運びやすかったことである。

 猫を捕えるのに、木箱で作った「地獄落し」、というのがある。猫が死ぬのが地獄なら、人間が、自分で自分の命を落し、又、敵をもその道づれにするそれらの攻撃兼自殺兵器を、何と呼んだらよいだろうか。


 のたりくたりでも汽車は汽車、汽車で4日間もかかった道のりを、てくてく歩いて、しかも、ソ軍機の制空権内を行くとすれば、大隊長や中隊長でなくても中々苦戦だというぐらいのことは誰にも想像できた。
 悲壮な決意と共に、戦車地雷を身に抱き、仮り寝の宿のトーチカを出て、日の出山を下ることになった。
 又、私の所属した第3小隊の行軍順位が、師団の最後になった時には『後方警戒』という任に当らねばならなかった。( 1-46 に記載)

 山の下では、自動車隊の野営地があって、そこでは炊事をして待っていてくれた。
 ここでは暗い内に朝食をとり、少々行軍して山の中に入り、蛸壷※を掘った。


※蛸壷
1人用の散兵壕のこと。上が小さくて、中より下を大きく掘るようにしたからこう呼んでいたらしい。
組み立て式の円ぴ(全員持参していた短いスコップ)で掘るのだが、木の根や石があったりして大変な労の時もあった。
それでも、立っていて掘るのは容易なことだったが、敵弾下で、地上に伏せたまま、円ぴの鉄の部分だけ持って、この穴掘りは相当な苦役だった。
武解に至るまでにはいくら掘ったのか、1日に2回、3回の時も珍らしくはなかった。
時には、掘っただけとか、掘りかけたところまでで転進したこともあった。
夜、長時間の就寝はこの穴の中で執銃のまま寝たりしたこともあった。
雨の夜は、このもたれている銃を伝って雨水が首筋より体内に入り込むため、とても睡眠どころではなかった。



 午後になって、出発することになり、小隊毎に林の中に集合しようとした時、田中古兵が、今まで自分が入っていた蛸壷に小便をしていて、分隊長の眼にふれ、「壕は武人の墓じゃ。」と、かんかんに怒られ殴り飛ばされていた。
 山を降り、今朝私達が朝食をした所を見ると、左と右に山があり、その山の谷になる斜面に、大きな倉庫が並び立っていた。(1-42 1-50 に記載)
 ここの倉庫は、107師団が他からの補給なしでも、3か月は保てるという食糧倉庫であると説明された。
 今夜も夜間行軍があるから、それまでに、何でも好きなものを取ってもよいとのこと、分隊長が装具の監視をやってくれ、他は全員が分どり合戦に参加した。
 ろうそく・マッチ等の日用品、砂糖・飴・菓子などの甘味品、酒・煙草などのし好品、牛肉・さば・鰹の缶詰などの副食物など皆思い思いに分隊まで運び入れ、あちらこちらでそれらの品々の品評会やら物々交換などがにぎやかに始っていた。
 ここでの夕食の時、缶入りになっていた携帯燃料※を、アルコールの匂いがするので食品と勘違いして、ご飯にかけて食べたりした田中古兵の喜劇も演ぜられ、衛生兵が「ろうそくを食べないばかりだな。」と、笑いながら、首を抱きかかえて吐かせていた。( 1-42 に記載)


※携帯燃料
レッテルなどははってはなかった。
小型の缶詰ぐらいの大きさ、この缶1個で2個の飯盒を同時にかけることができた。
何よりもの利点は、煙が立たないために、真上にソ軍機がいても攻撃されることがなかった。
欠点は、荷物になることだった。


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