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「満州国や、ソ連領内の収容所の周囲の状況」 


*キャプション
 搖籃ヨウランのおもかげ
 誰のよく予言せるや
 十数年後の虜囚の苦


 中央の杭は地上部分が約2m、中央の杭より内外それぞれ3mぐらい離れた所に高さが50cmぐらいの杭が打ち込んであり、その杭には20cm位の段をつけ何段も有刺鉄線が張りめぐらせてあった。
 収容所の4つの隅には10m位の高さの屋根つきの見張り台が作ってあり、執銃のソ連兵が交代で昼夜の別なく厳重に監視を続けていた。
 零下50度を越すような時にはその見張り台の上で、ソ連兵が、銃を皮バンドで肩に掛け、すたぱたと体を動かしているのが望見できた。
 両手で耳をこすり、狭い台上で片ときも休まず、まるでダンスでもしているように見えていた。
 そんな時、我々日本兵は、「ほう、やってる、やってる、勝ったロ助も楽じゃねえなあ。」と見上げていた。
 おそらく、あの高さで、じっとして風に当っていたら、冷凍人間になるかもしれないと思う。
北朝鮮の、古茂山、富寧、三合里では、中央は板塀がしてあった。満洲国やソ連領では同じように、内外3m位離れて杭が打ってあり、それには、縄が張ってあった。

 この杭の内側には絶対に出入禁止の厳命が出されていた。
 満州にいた時、周囲の柵の所々に点在する灯火の下で飯盒ハンゴウを洗おうとして、この内側に足を踏み入れた日本兵が見張り台のソ連兵に狙い撃ちされ、即死する事件があった。
 日本側の抗議に対して、ソ連軍側の応答は極めて簡単、取りつくしまのないものであった、と、事件の翌日の夜の点呼の後の会報※で知らされた。
 曰く「ソ連軍の戦時法規により処置。」1人の人間の命をたったこれだけで終わらせなければならない敗け戦の悲劇は、これに限らず、至る所で身にしみこまされた。


※会報
1日が終わり就寝前の点呼のあと、日直の下士官よりその日の出来ごと、注意すること、ソ連側よりの通達。人事異動、作業日程の変更、入浴の順位、等いろいろさまざまな情報の伝達がある。一般の兵、下士官に連絡することは、このような方法がとられていた。正月前には、帰国が近いという話が確かな筋より出たり、 (とどのつまり、シベリヤの収容所では、どこでも1回や2回このような帰国の話が出ては消え、消えては出て、また消えていた。流言の一種ではあったが、聞いた時は誰もその淡い夢を大事にしていた。)正月の特別料理だの炊事での伝聞ということわりつきの、もっともらしいニュース等、景気のいい話は大半が怪しい限りであった。それでも、この会報はいつも、皆から待たれていた。閉ざされた牢獄内の唯一のニュース源でもあった。


シベリヤより、北朝鮮に転地療養の名目で移動した時、古茂山に到着の夜、荷物も降さない内に射撃音が収容所内にこだまし、北朝鮮の流血の第1歩が始まった。
 縄張りの内側に生えていた、アカザを取るため縄を1歩またいだ日本兵が1発で射殺され、更に死体は3日位炎天下のもとにさらされたままで、日本側はどうしようもない、いまいましい忘れ去ることのできない事件もあった。
 ソ連兵は、この柵の内側を軍犬を連れたり、時によると2人1組で執銃で、よく巡視していた。
 広い三合里の収容所でも、その外側を、朝夕ソ連兵が巡視しているのが望見できた。上に貼付の写真は、幼時の時の個人写しのたった1枚で、これしかない。
 現在は、各家庭に写真機があって別に珍しいことではないが、私の年配で幼児期の個人写しの写真が1枚でもあれば上々の部である。姉の幼時期の個人写しは1枚も無い。
 親が長男にかけたであろう、何かの望みのようなものを感ずる。
 私にとっては、かけがえのない写真。


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