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11.昭和20年8月21日~23日 ラマ教徒の集落

昭和20年8月21日夜〜23日夜まで( 1-55 に記載)

 そうとうな山の奥、しかも高地での、蒙古人だけのラマ教の教徒達が集団で生活していて、一大宗教集落を形成している場所にたどりついたことがあった。その場所は高度1000mだと聞かされていた。

 土砂降りの雨の中を、泥沼に足をとられ、あえぎあえぎ辿り着いたこの山頂の集落は、全部隊が宿泊するだけの民家はなかった。
 幸い、私達の分隊は、狭いながらも民家の土間に干し草などを並べて休むことができた。私達が土間で休んだのは、そこが、よいとか、悪いとか関係なく、そこしかなかったからである。
 家主の蒙古人一族の寝ている場所が、2尺ぐらい(60cm)高くなっているだけで、あとは土間で内部は昼でも薄暗く、じめじめしていた。

 ここでは、蒙古人でもあり、又僧侶の身であるから、絶対に徴発することを禁止され、性病の多い集落であるということも伝達があった。
 彼等は至っておとなしい民族ではあったが、満語(中国語)が全然通用せず、又、何でもかんでも、とにかくべらぼうに物価が高かった。
 高くさえあればよい、というのでもあるまいが、鉄道沿線から山道だけでも10数里もあるためか、塩が1番高く、ビール瓶に1杯入っているのが50円だった。そのくらいの塩だったら、日本ではせいぜい5銭ぐらいのものであった。
  1円=100銭
  50円=5000銭
  5000÷5=1000倍
 日本の塩の1000倍の値ということになる。物価は、いつの時代でも需用と供給の関係とはいっても、ここでは桁外れだった。
 日本の塩は、塩田より生産した粒子の小さい白色だが、それでも5銭ぐらいのもの、一方、大陸では、土の中より掘り出す岩塩だから、粒子は大きくて粗く茶褐色をしている。
 インフレの進んでいた満洲でも、5円もだせば充分だった。

 それでも無いと困るから1瓶買うことにした。
 すると、今度は、もう1度続いた。
 瓶が欲しいならもう50円だということであった。
 ビール瓶1本の塩を瓶と共に買うとすれば100円。県立中学校の枚長先生
の月俸が80円の時代の100円というとすばらしい高額である。
 次にしてやられた感じがしないでもないのは、瓶を逆さにしてもさっと一息にはでてくれなかった。これは、岩塩の粒子が互いに邪魔しあってひっかかるからだと思うが、実はこのことが分隊員の間では重大な関心を呼び起した。
 つまり、岩塩が瓶から出にくいということは、入れる時にも入れにくいということに通じるというわけである。塩は瓶の中にぎっしりつまっているだろうか。果たせるかなどこの分隊でも、瓶から出してみた塩の量が少ないのには驚いたり、あきれたりした。

 もともと、この集落は、満洲国朝延直属で特別保護を受けているのだそうだ。生産活動はほとんどしておらず、わずかに、民家の屋根などから南瓜や「ふくべ※」などが1つ2つ下っているのを見かけたぐらいのものであった。


※ふくベ
ひょうたんの仲間、小さいのは子供の頭ぐらいから大きいのはバケツぐらいまでのもある。
ひょうたんと同じように、蔓から取った時には緑色をしていてそう固くもない。
乾燥したら軽くて固い容器になる。


 生産活動には没交渉。生活物資はすべてにわたり外部、つまり山の麓より人の背か、肩の力に頼って搬入してもらい、宗数の世界に精進しているという幸福そうな集落だった。

 山水がちょろちょろ出る所まで水汲みに行き、順を待っていると、蒙古人の子供が珍らしそうに集まってきた。
 子供の中で、手真似で煙草を請求しているのがいたから、1本やると、1本の煙草以上の大サービスをしてくれた。
 水汲みはもちろんのこと、編上靴の泥まで落してくれたりした。

 なるほど、宗教村らしく、日本の寺のような祭壇のある家が、あちこちの崖の斜面に見受けられた。
 そして、朝夕、狭い山道を、白髪を伸ばし頭に冠のようなものを載せ、威厳と見識のうかがえる老人が2~3名悠然として、両腕を袖の中で組んで歩いていた。
 彼等は、相当な古老のように思っていたが、一般に、極めて短命で、50才も過ぎると長命の方だそうである。
 これら、長老に出合った時には、入山する前の指示に基づいて、歩行停止挙手注目の最高級の敬礼をして、敬意を表していた。
 おそらく誰も、最初の指示がなくても、一度会ったら忘れることのできない、あの澄み切った眼の長老に接したら、無意識のうちに敬礼はしていたことと思う。
 日本兵の敬礼に対して、彼等は、多少頭を動かして答礼してくれた。
 その応対はごく自然であって、海抜1000mの高地という環境にふさわしかった。
 あとあとまでも、あの時は、奥深い興安嶺の秘境で、仙人に出合ったような記憶となって脳裏に浮かんでいた。

 この宗教集落は、四方が切り立った山に囲まれているため、ここにいる間は、ソ軍機も上空を通過するだけであった。機銃掃射はもちろんのこと、低空を飛ぶことさえしなかった。
 又、山頂にいた友軍も、ここではソ軍機に発砲しなかった。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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