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「野営」


*キャプション
 馬よいななくな
 露よ打たれて陣中の
 草夢路


 日中は暑くて、大阪夏の陣みたいに、休む度毎に上半身をぬいで風を当て、出発の際、準備が間に合わなくて、裸の上に背囊を負っている兵もいた。しかし、それは、日のかんかん照りの日中のこと、夜ともなればその寒いこと。
 8月だから、当然のことながら、夏の軍衣袴イコ(夏の上衣やズボンのこと)である。
 大陸の内陸部の夜は、冷え冷えした空気は肌に直接くいこむような気がした。夏でも、現地人で、綿の入った長袖を着用しているのによく出合ったことがあるが、1昼夜の間に、夏と冬といっしょにくるなら、寒さに対することを主にした綿入れの満服は合理的な、現地に適した服装だということになるように思う。
 状況さえ許されたら、焚火をして暖をとり、寝に就いた。
 馬は哺乳動物のためか、人なつこく、さみしがるのか、飼い主の兵が近くにいないとよく鳴いていたように思う。
 明日に備えて、静かにしている友軍の、休憩地内には、歩哨ホショウの、「誰か。」と誰何スイカする声と、馬のいななきが、その静寂の均衡キンコウを破ることかあった。
 雨の中の野営はひどく、しゃがんでおれば、首筋から、シズクが背中に流れこみ、薄い夏の衣袴はまたたく間に、外より、内より水に浸っていた。
 もう、そうなると、睡眠どころの問題ではない。
 夜の冷えに加えて大雨の来襲は連日の無理な行動で、体力の疲労、もうその限界にまできている兵の身には特に響いてきた。

 野営の際には、叉銃サジュウをしなかった。(叉銃とは、銃口を上にして、銃を三角形になるよう組み立てることで、互いに他の銃にすがり合い、風などでは倒れるようなことはなく、又、これを解く時も簡単で、3名の兵がそれぞれの銃を持ち、そのまま上にあげればよい。又、この叉銃をする時は、小隊とか中隊とかにまとまって、順に立ち並べ、これだけにも監視の兵がついていた。これは叉銃線の歩哨と呼んでいた。)
 蛸壷タコツボに入って、(個人用の壕のこと、少し長時間の睡眠がとれそうな場合には、壕を掘るよう指令が出ていた。人間1人分の穴だから、このように呼んでいたようだった。)しゃがみ、銃にもたれて、仮眠しようとしていると、分隊長がまわってきて、煙草をくれたりしたこともある。

 焚火用の木の枝を帯剣で叩き切ったが少々曲がってしまい、さやにうまく納まらなくなり、その直しをやって往生している最中を、こともあろうに、中隊長の藤川中尉に見つかったことがある。
 入隊した夕方、「しっかりやれ。」、と言われてから、個人で会ったのはこれが2回目、この時には、別に何とも注意らしいものはなかった。
 第3回目は、初めての夜間歩哨に立った時、山の下から、立木をつかんで、ごそごそはいあがってきたばかりの不審者に銃剣を突きつけて、「誰か!」と誰何※したことがある。坂をはい上ったその人は中隊長だった。
 「友軍!友軍!藤川中尉!」と、上ずった声で返事があった。
 そのことがあってから完全に名前も顔も覚えられ、その上に、関分隊長に中隊長より直接に、「後地は、未だ訓練不十分、夜間歩哨させるにはまだ早い。」、とその夜の中に指示と命令が出された。
 それ以来私は中隊長命令によって夜間歩哨が免除されることになった。
 中隊長は、銃剣を突きつけられた経験はあまりないようだった。


※あとで、古兵連中から、「お前は要領が悪いぞ、あんな時には、すぐに中隊長殿のところにとんでいき、『立哨中異常なし。』と報告するもんだ。と教えられた。



 武解のあと、興安の川端にいた時、ソ連側より、日本側への食糧等の給与引き渡しの窓口となるために、経理小隊が新設された。
 その時、経理小隊の要員として、中隊長の指名によって、この新設の小隊に転属させられた。(この転属のいきさつについては、後日、関分隊長より聞いた。)
 経理小隊に入れられたおかげで、疲労しきっていた体力が、入ソ迄には相当回復しており、又、ここまで、私をつれてきてくれた元の分隊長や古兵連中に、夜間、こっそりと、(食糧の不足で困り切っていた)米など手渡しすることができ、せめてもの恩返しのできたことがうれしかった。

 失敗することは、いいにしろ、悪いにしろ、本人にとって、絶対に悪影響ばかりでもなさそうである。
 ただ軍隊では特に、失敗はあっても問題は、それから後はすべて上官次第らしい。

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