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「【西口の戦闘】 (シーコーと読む)」②

 あと少しで対岸の堤防にまで渡河するという寸前、乗馬の将校が伝令となって、大声で「夜襲中止!至急もとの場所へ!」と怒鳴っていた。
 怒鳴りながらも馬は走らせていた。
 一般の兵には何が何やら分らない、しかし、将校の伝令なんか初めて、何かの情勢の変化があっただろうぐらいは分った。
 もとの場所に駆け足で引き返してみればもう集結した部隊より行進しかけていたが、時、既に遅し。
 まだ集結したばかりの部隊にすさまじいソ連戦車からの砲撃を受けた。

 西口での初めての砲撃で、頭上を越す砲弾の風を切る唸りぐあいで着弾が近いか遠いか、などを感で覚えたというか、本能的に危険を察するようになったか、そのどちらか、あるいは、それらが複合したものかは分らないが、またたく間に、自分の五体で覚えさせられた。
 そして、山の稜線近くにいると、頭上、それも、手をのばせば触れるかもしれないような感じの高さを、ヒュヒューン、ヒュヒューンとにぶい摩擦音を発して砲弾が飛んでいる。
 初めての砲撃のもと、1回の訓練もしていない私にとっては、想像を絶する恐怖の境、信管を弾にとりつけ、それを小野寺古兵に渡すため、帯剣を抜き、弾のとりつけ口の大きなネジ穴に帯剣を合わそうとしたが合ってくれなかった。
 上顎の歯は上顎で、下顎の歯は下顎で、それぞれ別個に、がくかくと微動しており、又、全身はふるえに加え硬直しかけていた。
 こんなことではと、自分で自分を押さえようとしてもどうにもならなかった。
 小野寺古兵が「後地、信管を全部つけとけよ。安全弁は外すなよ、俺が外すからな。」と、私よりも高い場所で両足を下に投げ出したようなかっこうで両股の間で自分の弾に信管をつけていた。全く緊張感はない。演習のような態度。
 更に稜線を見たらこれまたどうしたことか、関分隊長が煙草をふかしながら稜線の向とうを見ているではないか。
 「おう、きたぞ。1台、2台、3台、遅いな。ーーーよーんだい見える。俺が命令するまで撃つな。引きつけるぞ。」
 「まだ間がある、俺が言うまで穴に入っとれ。」と、たんたんと言っていた。
 煙草を吸っている分隊長、わさわざ穴から出て魚つりに行って針に餌でもつけているような様の小野寺古兵の物馴れた態度、それを見た途端に全身のふるえが一挙にぴったりと止った。

 砲弾の炸裂している最中に、山すそで軍刀を抜き「撃て!」「撃て!」と怒鳴っている見習士官(少尉に任官前の将校)がいた。平野古兵か小野寺古兵だったか、「分隊長殿、あれ、だれに、どこを撃てといっているのでしょうか。」と言っていた。
 「あれ何や。」分隊長は笑っていた。
 この時のことが災いし、とうとうこの見習士官は中隊内での兵からの威信はふっとんでいた。
 後日、私が経理小隊にいた時、この将校の当番兵が夜の点呼(人員の異常調べのことで、これは、朝、夕の2回あった)の後、砂糖や煙草の無心にきたことがある。
 階級は下でも、阿倍上等兵のように、帯剣のたった一刺しで、ソ連兵を刺殺した豪の者にかかったらいよいよ駄目だった。
 「おい、当番、自分で来いと言え!」と、それが返事だった。
 この将校さん、チチハル編制の13大隊として、シベリヤに行ったはずだが、兵からの信望を失っている上官として苦労したことと思う。
戦場に限らず、下の者よりの信を得るのは、一つ一つの当人の日頃の修業の積み重ねの結果ではなかろうか。

 西口で、その時は何も知らなかったが、後で西口の戦闘で、同じ3大隊で兵数名を残して全滅した9中隊(直江ナオエ隊といっていた)だった吉林師道大学の島田教授が戦死されたことをお聞きした。
 又、アルシャンの20008部隊に同じ日に入隊した同級生、斎藤道明君とは8月9日夕方、五溝の兵舎前で下車する際、網棚より荷物を降してくれた彼と手を握って別れたのが最後となった。
 アルシャン20008部隊に入隊する者はそのまま汽車に残っており、互いに手を振って別れた。あまりたくさんは残っていなかったようだった。
 窓から顔を出して手を振っていた姿、互いに名も知らない中だったが何人あの中から生還しているだろうか、などいろいろなことが思いだされてくる。
 この斎藤君が8月15日、やはりこの西口シーコーで戦死したことを武解の後、同級生に開いた。
 復員後、不確かな住所の記憶をもとに、茨木県土浦市の留守家族の人にお知らせした。
 しばらくしてから、兄さんの、斎藤明達さんより丁重な礼状がきた。それによって、お知らせした私が、逆に、死因は胸部貫通銃創(弾が胸を突き抜けたということ)だったということを知らされた。
 同じ隊の人が知らせたようである。
 私と同様、彼とても、兵といわれてまだ8日目、これからのある人生を興安嶺の露と消してしまった。
 時に、その年齢、19歳。
 私は一兵士で大局的なことは分らなかったが、復員後、世話部からの問い合わせの中に、第107師団状況不明者名簿があったのをみると、現在迄の判明事項欄(  1-19  参照)……

……8月15日西口東方10km転進作戦中離隊という記載事項があったから、西口での戦闘というのは相当広い地域にわたっていたのではないかと思う。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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