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12. 昭和20年8月24日 ラマ教徒の集落を発つ
朝、蒙古民族のラマ教の集落を出発することになり、手を振って別れを惜しんでくれたラマ教徒をあとにして、急で狭い山道を通り下山しはじめた。
山を下ると友軍の弾薬所があった。周囲が有刺鉄線で囲まれており、兵が監視していた。
そう大きくもない建造物だったが、ここの近くで、各人毎に現在持っている弾薬の現有調査があって、全員、弾薬盒(弾を収納するもの)を満タンにさせられた。ここの弾薬所の貯蔵量は相当なものではないかと思う。
24日の夕方、この2~3日続いた平和の夢は破られて、再び部隊はソ軍側の砲撃の洗礼を受けた。
既に内地は、復員相つぐ終戦以来10日も経過しようとしているのに、満洲の興安嶺の荒野では、107師団の諸士達の血と怨みをしみこませた最大の、そして最後の戦闘になった「五重台高原」※の遭遇戦が、その開始を待ちうけていた。
※五重台→号什台が正しいようだ。
平成7年10月15日 戦後50周年記念大会で受領の『平和の礎』P.160に明記してあった。
「敵戦車、後方より接近。」
「敵1個分隊発見、直ちに撃退。」
「敵砲兵隊発見。」等、24日の夕方近くなってから、刻々伝わる周囲の情況の変化に対して、部隊内では、急に緊張感が高まりだし、誰も神経をびりびりさせだした。
休憩した少々の時間に、傷病兵の集団は解散となり、それぞれに、各中隊に復帰を命ぜられた。明るい間に水筒に水を補給せよとか、不用品を焼却、又は埋没せよとかの指示や命令が、次から次と伝達され、あわただしさは一躍倍増していた。
間もなく、行軍中の各中隊間の距離が長く延ばされた。
暗くなってくるとソ軍の信号弾が飛びかいだした。
睡眠なんて、とても覚つかないこと。小休止があるだけだった。
行軍中にも「散れ!」、と散開の号令がかかったり、照明弾が上がったら、その火花を散らしながら上昇中に「伏せ!」の怒声がとんでいた。
結局は新京(現在の長春)を目ざしてはいるというものの、本日はどこまでとか、明日はどこまで行く予定だとか、そういったものは私達には全く知らされることはなかった。実際に聞いていてもそう役には立たなかったかもしれない。
私達は、ただ大命による皇軍の一兵士として、命令のあるままその責任を果たそうと努力しただけのことである。
砲弾のうなりや、銃声が身近かでも、不思議と心は冷静になり、しかも、動作は機敏にとれるようになっていた。
いつも、在満のロートルの雑談はくだらんもののように聞こえ、現役兵はそれをうるさがり、黙々と銃を磨いたり、擲弾筒に錆がこないよう気を配っていた。弾薬を捨てて、雨外被(雨合羽)を拾い、一度砲撃に遭えば、行軍隊形になってもまだ伏せているロートルの行動などとりあげて問題にしてなかった。
だが24日の夜と、25日だけは、ロートルさえいなかったらと、思わせるようなことが度々重なった。
照明弾が上がると、たちまち、部隊はそのまま伏せの姿勢をとっていた。
「伏せ!」の号令と同時か、または動作が早いぐらいだったが、ロートルの方はそうはいかず、とかく急変した事態への反応はにぶく、対応はのろのろとしていた。「伏せ!」の号令を聞くと、彼等はまずどこで腹ばいになったらよいかいな、と、その場所選びーー小学生の遠足での昼食の場所探しでもあるまいにーーーをしている。
昼のように明るい照明弾を背景に場所探しをやられると、その近くの兵はとんだとばっちりを浴びることになっていた。暗夜に鉄砲という諺どおり命中率はよくないが暗闇の中から撃つソ軍の砲火にさらされるもとになったからである。
又、体力的に成長期の過ぎている彼等の足の方は、雑談の時のように調子よくなめらかにはいかず、絶えず落後していて、行方不明になっていた。そんなときは分隊全員で、5分か10分の小休止の時でさえも、今来たばかりの道を引き返して探しに行った。はるか後方で、人並みの休憩中を見て分隊長に怒鳴られていたこともあった。
あまりにもロートル連中の落後が続いたから、小隊長せんば曹長が、私達に落後兵の対策として「戦場離脱の疑いあり、以後事故再発の場合は射殺してよろしい。」と明言したことがあった。
24日の夜、12時を過ぎた頃だったように思うが、「これより、強行突破
する。」と命令が伝えられた。
この、夜襲を兼ねたような強行突破というのは、誰が倒れても、そのま捨てておいて、しゃにむに行軍するだけで、積極的に攻撃をかけないということだった。小銃の安全装置を確かめさせられ、決して発砲しないという覚悟でおれ、と、通達があった。
強行突破の命令が出る前に、夕方よりすでに、四方が敵だと分っていたから、その確認みたいな形のその命令に、いよいよ奮い立つ思いがしてきたことを覚えている。
関分隊長が、「いよいよ、来たるべき時がきた。最後までついてこい。後地いいか、がんばるんだぞ。」と励ましてくれた。
分隊長はもとよりだったが、入隊したばかりの初年兵のため何も知らないから、2月に入隊した現役兵も何かといたわってくれた。
しかし、とかくそれが、在満のロートル連中の気に入らなかったようだ。
強行突破とはいっても、歩行の速度は別にたいしたこともなかった。
夜間行軍の際、喫煙、私語は厳しく中止するよう伝えられ、用便の時の離隊には分隊長か班長に届けてから行くことなどで別に変った処置がある訳ではなかった。ただ、小休止がいつかかるのか、全く予想すら立たなかった。
渡河する時とか溝にさしかかった時とか、1人しか歩けないような1本橋にさしかかった時などに、自然と、立ったままの停止状態があるだけだった。
後続の部隊の方で盛んに砲弾が炸裂していたが、停止しないで行軍した。
夜明け方になってから、私達の中隊も砲火を浴びたが、今までと違った爆発音で、炸裂のあとの、カラン、カランという軽い音が空を切ってうなっていた。
これは、迫撃砲だったそうである。
迫撃砲というのは、その弾道は直線ではなく、石などを下からすくい投げたような感じ、つまり、放物線を画いて飛来するというのだから、ソ軍兵は山の裏側から撃ってもいい訳である。
爆薬の量によってもその威力に差のあることは分ったことだが、撃たれる側にとっては砲の種類には関係なく、撃たれたらいい気はしなかった。
私の小隊では特に被害らしいものはなく、丸山班長が、片腕に迫撃砲弾の破片を受け、白布で腕を吊って歩いていただけだった。
敵と遭遇しなかったのは私の中隊だけであって、他の中隊は、大なり小なりの被害があった。
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