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【板座敷】


假寝カリネの床の板座敷


 三合里は旧陸軍の演習場の兵舎だったから、普通の兵営の兵舎のように各種の施設らしいものは何もなかった。
 同じ型の木造兵舎が並んで建てられていた。
 内部は、中央が2間もある広い土間の通路で、その通路の両側が板張りの居室兼寝室、食堂兼たまり場で、障子も戸もない殺風景なもので、もとより、兵舎のように各人毎の寝台などあるわけでもない。
 兵舎の入口に近いところに小さい部屋があり、中隊の指揮班とか、軍医の執務室にあててあった。
 板張りの部屋を2分するような形で、中央に小銃をかける銃架があった。
 板張りの部分の長さは、兵舎の棟の長さより小部屋の大きさだけ短かっただけだが、幅は、人の身長よりも少々長いくらいのものだった。

 就寝ともなれば、互いに頭と足先が交互に入れちがいにして並ばないと狭かった。
 もともと演習地の兵舎だから安眠できそうな雰囲気でもない上に、収容人員が多いため、片方の板張りの部屋だけは2段装置にしてあり、2階の兵は、短いはしごで上下した。

 いびきの激しい兵、夜中に歯をぎしぎしすり合わせる兵、他人の腹の上に足を思いきり投げだす者などは、各分隊とも敬遠するようになり、隊員の異動があれば、その氏名といっしょに夜半の要注意人物としての情報が秘かに早く異動する先方には流れていた。

 シベリヤのように、生産性のつきまとうような作業はなかった。
 食事後は手製の将棋、花札、トランプ、麻雀、囲碁などを使い、至るところで名人戦が展開された。
 段付きの人の将棋の対局ともなれば、その人達の周囲には人垣ができた。
 中には、その人達の局面をすぐ近くで参観しながら、別な盤上にそれと同じ局面を再現してやっている程の向上心のある兵もいた。
 今まで、俗にいう、王よりも飛車が大事な、ヘボ将棋しかしたことのない私にとっては、眼をみはる思いがした。何よりも飛車が大事、いよいよ王様が八方ふさがりになってから、ようよう勝敗を見極めることには馴れている素人すじにとっては、「ここまでだね。」と言って正座している対局者が手を降しても実際には何も分ってはいなかった。
 クイズ並みに、正解は、すぐ近くで同じように並べてある盤の上で、段付き程ではないが、その次ぐらいの階級のオッさんが、偉そうに解説つきで説明していた。
 対局者同士が、「やぐらできましたね。」とか「少し早いかこみだね。」とか言い合っているのを、うなずいている者と、分ったような顔をして見ている者など見物人の実力?にも落差、格差の層が感じられた。
 私は、よく聞く言葉で、定石とはこんなものかなとは思っただけで、あまり深入りはしなかった。

 体の調子が日毎に整い、収容所の食事も事欠くこともなく、特定の仕事もなかった。
 また舎外に出ても、じゅはん(軍用語でシャツのこと)1枚でも充分だという適温。
 つまり、衣食住にはそんなに不足のない環境にいる20代、30代と、少数ながら40才代もいる大集団の日々のくらしの大半は、この板張りの上で過したことになる。
 対人を求めての勝負ごと以外に、個人としての時間つぶしに種々雑多なものがこの板張りの上で展開されていた。


・炊事場へ行って小木片を拾い、ガラスや瓶の破片で磨きあげて、スプーンや、フォーク、箸作り
・木の根を利用したパイプ作り
・編上靴の馬革を使って、お守りさん入れ
・天幕の端切れで、箸袋
・毛布や軍手の糸をほどいて、編み物
カマスを分解し、その藁で草履作りなど……


 およそ手に入りそうな材料でいろいろなものが作り出されていた。
 戦後、中国とか満洲などの収容所では、このような遊びごと(将棋、囲碁など)は奨励されていたようである。

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