22.昭和20年10月中旬~27日
10月の半ば頃より、1日か、2日ぐらいの間をおいて、1500名を1つの単位として、1番最初の部隊より、1大隊、2大隊と呼称をつけ、内地に向け出発するとて、頭より、足の先にいたるまで、全部が新品の完全な防寒装具を身にまとって出て行った。
私達も早く出たくてたまらない。
新編制の大隊が出る度に営門のところまで行き、「元気で帰れよ。」と見送っていた。
出発していく大隊は、ここを出る前に、同じ柵内に仕切られた別の宿舎に移動した。(但し、残留の宿舎とは自由に往来はできた)
私は、柵の向うに移動する前の、ソ軍側の身体検査で不合格となり、清水候補生や鶴見、三好、黒田とかの同年兵と共に、栄失ばかりで編制された特別中隊に転属することになり、思い出の尽きない藤川隊の友に別れをつげなければならなかった。
ショウミントンに来てから、将校当番をいいつかった。見なれ、聞きなれで古兵連中に交って勤務し、友人も増しており、暇で体をもてあそぶ将校当番(旧日軍隊の時代だったら、きりきり舞いする程のいそがしさに追いまくられていたそうである)だったから、雑談とストーブの火の番に明け暮れた。ところが、転居と共に取友は少なくなり、チチハルの陸軍病院の退院下番兵(退院した兵ということ。これから入院する者は、入院上番兵といっていた)が主力だったこの特別中隊では、右を向いても左を向いても、弱そうな顔つきの兵ばかりで、頼りないような、気の抜けたような気がした。
この栄養失調の集合中隊であった特別中隊に転属してから、期間は短かかったが、その間に、上から下まで全部新品の防寒装具一式とサラシを1人当り1反、毛布は各人の体力限り持てるだけその数は自由、冬の衣袴一揃(軍用語、冬服の上下のこと)、飯盒覆い、水筒覆い(内側にノロの毛皮がはってあった防寒用のカバーで、帰国してからこれで飯盒をしまっておけば、1日ぐらいは、いくら冬でもご飯は冷えなかった。毛皮の手入れが悪くて、内側から虫に荒らされたため、とうとう捨ててしまった)。
満服(苦カー現地の中国人労務者ー用の服で、綿が入っており、上衣とズボンに分れていた。黒一色だった。この中の綿が、入ソして病棟に入った時に生した床づめの痛みよけに非常に役立った)などの衣類関係の支給を受けた。
それら新品の装具は、1人分が15~16貫(約60kg)ぐらいもあった。
支給品以外の毛布まで手にする体力の余裕のある兵はいないようだった。
何回も装具の点検を済ませて、1日も早くと出発の日のくるのを待っていた。
昭和20年10月27日
私のもとの本隊が主力の、チチハル編制の13大隊が出発することになった。
降りしきる雪の中を、小隊長、中隊長、分隊長、もとの4分員を探しだし、固く手を握り、別れをつけた。
営門を出ていく隊の中より、もとの3大隊、藤川隊員の嬉しそうな笑顔と、「後地先に帰るぞ、元気で帰れよ。」と各人の大声が、いつまでも心に残った。
ここへ、チチハルの市民が入所してきた時には、父がもと勤めていた長谷川組(日本で、現有している大手の土建会社のチチハル出張所。大工職人として、父は3年ぐらい出稼ぎに出ていたことがある。昭和19年になると、乗船の切符が手に入りにくくなり、渡満することを止めていた)のことを聞いたりした。
チチハルの在留邦人達は、終戦の直後は、満人の暴動と、軍律の乱れたソ軍の暴挙により、惨々たる敗戦の痛手を受けたようである。
やがて、ソ軍側の軍司令部がチチハルに設置されてからは、それらの動乱も収まり、在留邦人だけが1か所に集結して生活ができるようになり、その生活は自由で何の東縛もなかったそうである。
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