36.昭和21年3月~4月 健康体で迎える春
昭和21年の3月に入ってから、朝と夕方の2回、体温と脈はくを測り、患者の枕もとにかけてある表に衛生兵が書き込むことになった。
病棟ではすべての患者が中央の通路側に頭を並べて寝ることになっていた。そのようにすることになった最初の頃は、衛生兵が患者を1人ひとり、脈も体温も測って記入した。ずいぶんと手間のかかる仕事だと思っていた。
そのうちにずいぶんと簡素な方法を考えだした。
その方法は、まず測定する前に衛生兵が各患者の表を寝ている順に集め、それを重ねてから、
「おーい。みんな起きろ、今から各人で脈をかぞえる。いっしょにするぞ。準備をせえい。いいか。ようい始め!」と怒鳴ってからズボンの紐につけた腕時計を見つめて時間をみていた。
しかし、誰も日1日と体調が整いだすとともに、3月の日中は外にも出たりするようになってきており、よく睡眠もするようになっていた。朝の眠いとき、または夕方の食事の時にそれをされると、いささか面どうに感ずるようになり、寝たまま、いいかげんな数を答えたりする者もでてきた。……
*キンクーマ注
この間、84~85p
撮影忘れ…メモに追加
……後から考えると、100円札(満州国紙幣)没収はソ連の外貨獲得策?
その頃、満州国も日本も、紙幣では100円札が1番の高額紙幣だった。1000円札、5000円札、10000円札などはみんな大戦後のものである。
患者の収容所外への移動。
昭和21年の4月に入ってから、第10兵舎の患者の1部が「カリモスクワ」に移動することになり、転地療養するのだと張り切って収容所を出ていった。出たと思ったら3日目頃に帰ってきた。
せっかく勇ましく手を振って別れて行ったのに、先方に着いてみたら『まだあなた方患者を受け入れる準備態勢ができていない』という理由で入院を拒否されたため、やむなくそのままもとの収容所に帰営したということだった。
このため、帰営してみると、かえって前より体調をくずしたという者もでてきたらしい。
昭和21年4月15日、ガダラ病院。
ガダラの第6大隊のところにあるソ軍の病院に移転するため、第10兵舎からも佐藤、清水、関、佐藤信次郎、小笠原古兵など、よく知りあっていた仲間が12名か13名ばかり、ソ軍側の軍医の診断によって選定された。
その頃、第11兵舎の下側に第12兵舎が完成していて、そこも病棟になっていた。その第12兵舎からも「ガダラ病院」行きの患者が数名選ばれた。
それらガダラ行きの患者は迎えにきたトラックで行くことになり、営門前の広場に並んだ。
割と元気そうな顔つきの者が多かった。
ともに再会を約し、内地の住所を記入して交換し合い、互いに固く握手して別れを惜しんだ。清水候補生や東京出身の同年兵、浜野君などは「帰るときはいっしょだぞ。」と、涙ぐんでいた。
興安嶺以来の友を送りだした私の方が、出ていく彼等よりもはるかに心細くなり、さみしくなってきたが、ぐっと心を押さえて手を振ってトラックを見送った。
そして中隊の方では、この患者の移動が近頃の最大ニュースとしてもてはやされた。
そのことは、たったトラック1台の、数えるにもたらない少数の患者移動だったが、これは『間違いなく帰国が近いということの前ぶれである』という噂をいっしょに収容所中にばらまいていたからである。
昭和21年4月頃になると、第14大隊の収容所ではだいぶ兵舎が増築されていた。昭和20年に入ソした頃は第11兵舎が1番最後の番号だったのに、年を越した春にはもう第17とか第18の兵舎番号がつけられていた。
そして、ガダラの第6大隊の健康兵や山奥へ伐材に出ていた作業隊がぞくぞくと、私達の収容所に新しく入ってきた。そのために、1500名のうち1200名が生存していた私達の第14大隊の収容所の人員は、2000名を超す大集団となった。ソ連ではこのようにして、広大なソ連領内の各地にばらまかれていた日本兵の収容所の数を順次減らしていたようである。
後日、私が入院させられたヒイロク市の1936病院も、昭和21年10月に日本兵の患者とその病院づきの作業隊員はすべて帰国、または他の病院に移動していて、日本兵はその病院からすっかり姿を消している。
ふくれあがる収容所内の人員の増加と移動とともに、各中隊の兵舎間でも移動があった。私がいたもとの分隊でも、分隊員は転属しは隊員はちりぢりになった。
営外作業がいよいよ本作業態勢に取り組まれるようになり、炭鉱作業に専念する収容所になった。
そのシステムは3交代制。
炭鉱作業が本格化し、その各組ごとに食事の時間帯も兵舎も違っていた。
炭鉱に行けない弱兵にはまた別の軽作業として水汲み、便所掃除、炊事の雑務、舎内監視など、遊ばせないように何かの作業が割りふってあったようだ。
シベリヤでもやはり春はある。
4月ともなれば、それまでの白一色の殺風景な冬景色の野山が雪を払いのけ地面を露出した。
土の色、土の香、土の匂になんともいえない懐しさを感じた。土というものにこんなにも愛着を感じたことはそれまでにはなかった。
朝方には、収容所内の路面にできている水たまりには、薄いガラスのような氷が張っており、霜が降りたり雪が降ったりしたのが見られた。太陽が登るにつれてどんどん溶けてしまい、日光のあたるところでは、時によるとかげろうさえ燃えていた。
そうなると、もう火の消えかかったペーチカのある不潔なこと最高の兵舎の中よりも、屋外の日光のあたっている乾いた大地の方がはるかに座りごこちもよく、患者同士の会話にも活気がでていた。
どの患者も何も敷かずに大地にべったりと腰をおろし、やってきた春を楽しんだ。
ソ軍側よりの給与の向上とともに気分もおだやかになり、冬の間中生きるのか死ぬるのか、その境界あたりを行ったり来たりしてうろうろしていた患者群、私を含めたその患者の群が、だれもかれもめきめきと丈夫になり、一時期には埋葬の使役をだすのに困ったほどその数の多かった死亡者も、ぴったりと忘れたようにいなくなった。
体力にある程度の自信のようなものがついてくると、ちょっとした下痢をしても自分の方から進んで絶食して治療しようとするだけの心のゆとりと、自分の体を自分で守り大事にしていかねばならないという心構えがついてくるようだ。
気力、体力のついてきた者より退室していったが、退室する前夜にはあちこちの知りあいの患者に別れを告げていた。
昼の間、患者の群はあちこちの日だまりに3人、5人とたむろしていろいろな話に熱中していた。
地上では、暦の上は4月だというのに未だ1本の草の芽もその顔をだしてはいなかった。草芽どころか、夜間にはバケツに水を入れ、熱発患者の治療用の氷作りさえ屋外で行われた。
屋外で、自分の足で1歩1歩大地を踏みしめて散歩できることの嬉しさ、それはそれだけ元気になったことでもあった。自分の力で屋外散歩のできたことを衛生兵に告げたり、寝ている者に宣伝したりして喜んでいた。
そうなってくると、もう子供も大人もすることは同じで、雪のない大地を歩いたことを互いに自慢し合った。
「おい。俺、今日、外便所まで行ったぞ。」
「便所ならもう3日前くらいから行っているわい。今日は本部の前の新聞を読んできたぞ。」
「何、俺、便所まで、あの坂道を走って行ったぞ。」