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「行軍」


*キャプション
 黙々進む人馬・人馬
 捧げし身体惜しませじ


 どこまで行ったら終りになるのか、興安嶺といっても山ばかりではない。
 地平線の見えるなだらかな丘陵の草原、火野葦平の「麦と兵隊」を連想するに充分だった。
 何のサエぎるもののない草原を、夕方、ソ軍機がやってこなくなった頃から、兵にとってはあてのない行軍、ただ命のまま行く兵は、歩きながら眠り、眠りながらも歩いた。

 たった1回だったが、私の小隊が行軍中「後方警戒」という任に当ったことがある。
 このことは、何年も軍経験のある人でも「そんなのがあったのか。」と言っていたから、案外、経験者は少ないようである。
 軍隊では、行軍する前、たいていは朝とか夕方とかに「本日の行軍順位は、1大隊より編制順。」と通達されるのが普通だった。(編制順というのは20001部隊の1大隊の1中隊、2中隊、ーー2大隊ーー3大隊の9中隊、10中隊、11中隊ーー20002部隊の1大隊の1中隊ーーと続く方式)
 停止した位置によっては、次の行軍にかかる前に行軍順位に多少の変更のある場合もあった。しかし、この場合には本部よりその旨の事前通達により兵にも知らされていた。

 後方警戒のやり方は、曲がり角の度に兵が2名残る、そして、部隊が次の曲がり角になった時、1名が残り、1名は走って部隊の後を追う、そして、その角についた兵の合図を待って1番どんじりになっている兵も、もう1度、後方を見直してから一気に走って角まで行き、部隊の後を追うのである。
 何千名という大部隊の兵と馬、車輌の過ぎ去った後、草は踏まれて黒ずんでおり、土のやわらかい草むらの凹地には、重い車のワダチの跡が深くなっていた。

 忘れ得ないのは、その時に感じた威圧されそうな、無言の世界とでもいったらよいか、20001、20002、20048、20008部隊を含めた107師団全員、兵1人、軍犬1匹、軍馬1頭、何ら残すことなく去り行くもの、すべて去り行き、あとはいっさいの騒音、ぷっつりと絶え、東西南北、見えている生物はタダ、吾一人、その吾が身を包むのは「静の世界」。
 これとても、時間的にはそう長い時間ではなく、しかも、小銃の1挺も持ってはいるものの「静の世界」、「沈黙の世界」のこわさ、これは、何にたとえたらよいか。
 視界のとどく限り動く物なく、声する者なく、頼りたい人馬の影、遠くに去って山中に没し、荒野に吾1人息して漂っている時の人間の弱さ、この「弱さ」を嫌でも、その「静かさ」がこれも又黙って教えてくれた。
 行きつく角では、友軍の兵がこちらの来るのを見守ってくれていることを承知はしているのに、(時には、3分隊の軽機分隊が軽機を据えて待っていてくれたこともあった)必死で走っている背後から何かが追ってくるような、なんとも言えない気味の悪さは忘れられない。

 マラソン競技の実況放送などで、よく「自分との闘い」、「孤独との対決」とか伝えているが、この後方警戒の任の実況放送をするとしたら、どのような表現を考えだすだろうか。
 曲がり角で残っている友軍の兵に合図をしてから、草陰に身を隠して待った。彼はすごいスピードでそれに、緊張と不安を織り交ぜ、顔面をひきつらせてやってきた。
 私の所までやってきて、部隊の後が見えたら、ほっとして、安堵の色が顔面に溢れ、水を飲み、ありありと生気がみなぎってくるのが見てとれた。
 後から来た兵の生への執着か、あさましくもあるその顔つきのすさまじさ、それは、ひょっとしたら私を写した鏡の代用実物品だったかもしれない。私は、待ち受けている時に来た兵の表情を今頃思いだしてどう表現してよいか、それぴったりの言葉がない。

 後からこの時のことを分隊内で話したら、これも意外と体験者は少なく、わずか数名の現役兵(3分隊の軽機を含む)だけだった。
 もともと、兵とは消耗品並みの扱いではあったが、この後方警戒にしても、もし、敵に追跡されていたらどうなるだろうか、一番最初の犠牲者になること間違いないところだから、今思えば、この任を命ぜられた時、既に、第一級の消耗用品に選抜されていたことになるように思う。

 ひどい話だが、これも大部隊の安全を守るための手段であって、これが戦場の現実というものではなかろうか、これを、非情とか無情とか思うのは終戦後になってからのことである。
 戦争そのものが非情の上に成り立つものではなかろうか。
 私とても、石や木から生まれたのではない、親がいる。
 親が、こんなこと聞いたらどう思うだろうか。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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