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26.昭和20年11月9日 シベリア・チタ州に着く。現地の様子とラーゲリの構造について


*キンクーマより
ここからのタイトルナンバーは 第1巻・後半 からの続きで番号付けをしていきます


 昭和59年9月29日(土)よりタイプ開始。

 昭和20年11月9日 シベリヤ・チタ州チエノフスカ着。(チエノフヤフスカという人もいたようだ)

 相当大きなチタ市の駅に着いた時、あと少しで下車するかもしれないから、各自、下車準備をしておれと、伝えられた。
 この『あと少しで下車』ということが…ソ軍側よりの通達でこれが初の【本当のこと】のように思う…結局はこれもデマではあったが、「ウラジオストックは今、日本兵で満ちているから、ここでしばらく迎えの船を待つのだ。」というニュースが流れ出た。
 誰ものんきなもので、シベリヤ見物ができるからいいではないかと嬉しがっていた。

 貨物列車に満洲で乗車してから5日間かかった8日の夜、引き込み線に入って停車した地点がチエノフスカだった。
 9日の朝、下車し、2里ぐらい離れているといわれた収容所まで歩くことになった。大雪の朝で、深い雪の中を1歩1歩ゆっくりと歩いた。道路でない所に足を踏み入れたら、重い装具のまま、すっぽりと胸まで埋った。
 雪が風で吹き飛ばされていた道路は固く凍結しており、背負っている荷物とのバランスがとりにくくてほとんどの兵が、1回や2回は実に見事にひっくり返った。
 軽装の警戒兵の方は、わざと雪の中を歩いていた。この方がすべらなくてよいことは分っても、重い荷物のために、それがままならず、よく滑ることも滑った。

 駅の付近には、民家は少数しかなかったが、小高い山を越えたら、急に町らしい家並みが見えだした。
 小学校の時に習った国語か修身※か、の教科書のさし絵にあったリンカーンの家のように、丸太を積み重ねた感じのする民家の並んでいた大通りには、多数の地方人が私達の行列を見物するために外に出ていた。
 ソ連の地方人の男女の性別は、日本のように衣服だけでは区別がつかないように思った。(日本の国も、終戦後は衣類の色彩による男女のおおよその識別が難しくなった面もあるようだ)


※修身
終戦の年まで義務教育の学校で教えていた。
君に忠、親に孝。
天皇に忠義を尽すこと、親には孝行をすること。
帝国憲法を根幹とし、教育勅語をよりどころとした。
そのために、終戦後は占領軍の命令によりこの教科は廃止になった。

昭和30年になり、これにかわる、日本国民のための人倫上の問題にとり組むため、小中学校では【道徳】の指導が政令により定められた。
【修身】は1つの独立した教科だったが、【道徳】は教科ではない。【道徳】は、学校生活のあらゆる場をとらえて学ぶものであり、またその授業をするようになっているが、【修身】のように採点するというようなことはない。
だから【道徳】は教科ではなく【領域】という新しい単語の範囲に入れられている。



 ソ連の地方人を身近かに観察した私達の会話は、
 「あいつ女かな。」
 「いや、男かもしれんよ。」
 「汚いな。あのかっこう。」
 「貧乏そうだね。我々の防寒帽の方が質がよさそうではないかな。」
 「皆、体格がいいなあ。」
 褒める言葉よりも、けなす方が多かった。
 こちらが先方のソ連人を観察するならば、当然のことながら、私達の方も彼等からは何かと見られていたことだろう。

 先導していたソ軍の警戒兵は、少し行ったかと思うと休み、また少し行ったら休んだり、民家に入ったりしていたから、誰もが「あいつ、道を間違えたな。」と言っていた。
 この歩行方法が、大雪の日の凍結路面の歩行には馴れていない、大荷物の日本兵に汗を流させないための凍傷予防だったとは、気がつかなかった。

 収容所(ロッシャ語で「ラーゲル」と呼んでいた)は、町から1kmぐらい離れていた。ちょっとした小山の東向きの斜面に、12~13ばかりの、もぐら式の兵舎が並んでいた。( 2-1 参照)
 到着して兵舎が割り当てになり、中に入ったら、すぐに荷物を置いただけで外に出て、私達が休むための収容所の周囲に、有刺鉄線(鉄条網のこと)を、低、高、低、と三重に張る作業をやらされた。
 この作業は、方、100mはある収容所の周囲だったから、3日もかかってようよう仕上った。

 兵舎の内部は二段装置が作ってあった。
 室内は土間で、中央が通路、両脇は食堂・寝室・病室・遊戯場・集会所・散髪屋さんの腰掛けの代用・喫煙室を含めた社交場、を兼用した各人、各分隊の住いだった。
 室内暖房としてペーチカが3個、入口は兵舎の両側にあった。
 内部に行きつくまでに、ドアは、1つの戸口に、第1と第2の2個所あった。
 第1のドアを押して、2mも歩くと階段で下に降りるようになっていた。
 階段の下の、第2のドアを押したら部屋になっていた。
 部屋の2階の西側は、山の斜面の上側のため、土の中だが、東側の2階には明り窓が作ってあって、その窓枠が地面とちょうど平だった。
 そうすると、2m50cm以上の深さの穴に住居があったわけになると思う。

 1つの兵舎の収容人員は130名ばかりで、1つの中隊員が同1兵舎に全員入ってはいなかった。
 兵舎は、炊事、部隊本部、病棟と、それに私達一般の中隊員の起居していた棟の区別があった。

 私達は第11号の兵舎(単に、11兵舎ともいっていた)に割り当て…第7中隊員で、この中に入れない3小隊の4、5分隊と、4小隊の兵が隣の10号兵舎の6中隊員といっしょになった。
 14大隊の収容所の最寄りには、広島第5師団の兵が主力だった第6大隊と、関東州大連の警察隊などの地方人とか、種々雑多な混成で編制されていた第10大隊の収容所があった。

 第6大隊は、昭和20年9月3日に夏衣袴(夏服の上下のこと)で、ここに到着。当日、初雪に降られ、ちぢみ上ったと聞かせてくれた。(この第6大隊、第10大隊は、共に新京で編制の部隊)
 この先着部隊である第6大隊員の手で、後着の第10大隊と、私達の第14大隊の兵舎を建てたそうである。
 第6大隊員は、第14大隊の兵舎を作るに際して「お前達の入る兵舎を作るんだ。」と聞かされた。現在起居している収容所(何かの学校を使用していた)を出たくないばかりに、わざと、丁寧に暇をかけて作った兵舎だそうである。
 ところが、あとで第10大隊の兵舎を建てる時には「ロスケの兵舎を作ってくれ。」とのことだったから、極めて大量生産方式で早くやりあげたため、ドアの食い違いや、少々の風圧でも吹き飛ばされるような大変お粗末なガラス窓枠などもあったとか、第10大隊の兵が大文句を言っていたのを、後日、ヒイロク市の1936病院にいた時に聞いた。

 収容所の造作でも、いい所と悪い所では、天と地、それ以上の差があったようだ。ガダラの第6大隊は、水道、電気、防寒施設完備の学校の転用だ。もぐら式の防寒だけしか考慮がしてない収容所と比較しようにも、出発点からして、既に大差がつき過ぎていた。

 先に完成していた兵舎に、1番遅く現地入りした第14大隊が入所できるようになったことは、何かにつけて、幸運だった。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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