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初陣の朝ぼらけ


*キャプション
 いざ征?初陣の朝ぼらけ
 何処で散るやら 果てるやら


 日の出山要塞を下る時になって、小隊内のちょっとした編成替えがあり、小銃分隊より4分隊の擲弾筒分隊に回された。
 新潟県出身、支那事変で金鵄勲章を授けられている関上等兵が分隊長だった。
 武装解除のあと、一階級上の兵長に昇進した※。


※終戦の時に、勤務年数の不足でも階級の上ったのを、終戦宜言のあったポッタムをもじり、それらの進級者にポッタムをつけて呼んでいた。だから、終戦のどさくさの昇進者を、ポッタム少尉とか、ポッタム班長ともいっていた。


 ひどいのになると、自分で勝手に階級を2つぐらい値上げして自称しておき、軍隊特有の、用語で自分の現在の所属の変更がある時に、その時の長に対して、その所属の変更を申告する形式ーーまず昭和年月日とその期日、官姓名、どこからどこへ、とか、又はその転属の理由、等を言う順序がきまっていた。ーーが分らずにまごつき、申告を受ける側の長より、「お前、本当に班長(伍長のこと)か。」と、怒鳴られていたお粗末な自称陸軍伍長も出てきていた。

 ーーその反対に、憲兵、特務機関員、新京とか奉天にいた防疫給水班(言葉どおりの役職名ではなくて、細菌戦に備えての各種の実験にかかわっていたといわれている特殊任務の兵)の人々は、入ソ後は無論のことだが、武解の後で特にソ連側の追求がきびしかったから、兵科、身分、所属等はひた隠しに隠し、階級も1つ2つ自分で下げていたようである。
 しかし、それらは、同じ日本人同志の密告で次から次とばれてしまい、懲罰大隊というソ連側の特殊な収容所に収容されていったようである。ーーー

 新しく転属になった4分隊で関分隊長から分隊員に紹介され、第1弾薬手をすることになった。
 この分隊での現役兵は、平野、小野寺両筒手、韓国人2名、それに何も知らない私をいれて5名、再召集の関分隊長、4名の在満の召集兵。合計10名だった。

 山を降りる準備(準備というより、むしろ心構えとでもいったらよいのか、行き先は奉天方面、しかし、周囲の状況により玉砕する覚悟でおれ、という訓辞のあとの出発である)として、貴重品を1括して穴に埋める一方、擲弾筒の弾薬、小銃弾(擲弾分隊では、小銃の無い兵にも小銃弾の支給があった)米、靴紐と折りたたみ式のナイフ、繃帯包、(個人毎に上衣の左側の裏に専用の入れ場のある応急処置用品のつつみで、一番外側に仁丹ぐらいの大きさの糸の結びがあった。万が一の時は、この結び目を歯でかんで引けばよいと教えられた。内には、三角布、ガーゼ、マーキロのようなものを浸みこませたガーゼなどがきれいにおりこまれていた)それに、又、投げる力の弱い者にも一律に手榴弾の支給があった。私のは小型の新式が1個と、発火してから爆発まで5秒間という旧式の、やや大型が1個だった。その2個を1個ずつ紐で結び、ズボンの後に結びつけた。
 ナイフは、支給された靴紐で使い易い長さに調節し、これはズボンの前側に結びつけていた。このナイフは上等だった。武解のあとソ連側より刃物の所持がうるさくなってきたので捨てた。

 いよいよ集合のために立とうとしたが重過ぎて立てなかった。
 背囊を背にして、座ったままばたばたと手足をばたつかせて往生していた。
 そこへ関分隊長がやってきた。私の背嚢を取り、開いて中に手を入れ「後地、見張っておれ!」と言いざま背囊の小銃弾と、その上に、擲弾筒の弾薬もごっそり取り出し、両手で抱きかえるようにしてさっと草むらの中に入った。入ったと思ったらすぐ手ぶらで出てきて、「集合だ。遅れるな!」と。
 何のことはない、自己防衛のための適切な減量調整ではないか。
 軍の上層部の机の上の計算ではこんなことまで考えてはいなかったことと思う。私が知った軍隊の要領というものと、上に立って分隊員を率いていく班長の責任とは何かが分ったような気がした。(もしこんなことが憲兵にでも見つかれば厳しい処分は間違いないことである)

 そして、この日の出山を降ったら、もうあとは生と死との背中合わせ、紙一重の運命のいたずらの波にほんろうされ続け通しだった。



*赤線部
 のちに関東軍防疫給水部本部となり、満州第七三一部隊とも呼ばれた。細菌戦に備えた研究を行った


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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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