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8.昭和20年8月15日(終戦の日)西口での戦闘

 西口、ソ軍戦車より初めて砲撃を受けた。

(戦後、日本では、この日を終戦記念の日としている。昭和59年8月15日には、政府主催の全国戦没者追悼式が、東京・北の丸公園の日本武道館で天皇陛下をお迎えして行われている。)

 昭和20年8月15日は、日本が、無条件降伏し、戦争は終了していた。



 午前中、敵戦車が1台、土煙をあげて街道を走っているのが見えたが、すぐに引き返していた。
 3小隊の隊長、せんば曹長が双眼鏡で見ていて、「銃を倒せ!」とか、「動くな!」とか怒鳴っていた。
 蛸壷に入っていても、戦車だという黒い塊と、もうもうとした土煙がはっきりと見えた。

 満人の部落の向い側に、ソ軍が駐屯しているという情報が伝えられ、間もなく「今夜は夜襲決行。」と命令が伝えられた。
 夜襲の隊員は現役のみが参加することになり、私も希望して隊に加わった。
 夜襲の服装は、装具を降して、手榴弾、帯剣、小銃だけの身軽ないでたちであった。
夜襲隊員が整列すると、抜刀した10中隊長、藤川中尉よりこまごまとした訓辞を聞いた。
 「これで私も男の仲間入りしたのか、散って悔のない命の捨てどころ。」と、恐ろしいとか、心細いとかの念が失せて、身がひきしまり、敵がい心が溢れでたことを覚えている。
 そこでの訓辞の内容は、暗夜での同志討ちを避けるための合言葉(「山」に対して「川」と応えるよう、あとで互いに練習させられた)や、夜襲の目的物は敵の兵器破壊、何でもいいから、爆破せよ。できる限り発砲は見合わせ、敵を深追いするな。」というようなことだった。

 西口部落と、私達が蛸壷を掘って散開していた「はげ山斜面」との間には、大きな河があった。その河端まで、各中隊毎に、夜襲隊員が、草原やら畠の中を、べったりと地にはうような、ほ伏して前進し、土手の高い河端まで行き、河の淵に隠れて夕方頃まで休息していた。

 夕方になると、今夜の目的地の満人の部落の火災の火(昼、ソ軍の砲撃で火事になっていた。そこへソ軍が駐屯していると聞かされていた)が、益々鮮明に夜空を色どりはじめ、民家の灯も見えだしていた。
 河の中に入ったり土手に伏せたりして、擬装網ギソウモウ※を解いて作った紐で、懐炉灰のような形をしたダイナマイトの袋を3本ずつ、導火線を中にして結び合わせ爆薬を作った。そして、どこでもいいから、固いざらざらした面とすり合わせればすぐに発火する黄燐マッチが、爆薬の点火用として支給された。


※擬装網
兵だけでなく、戦車でも皆これを使用していた。兵の個人用は、3cmぐらいの目の網をすっぽりと背囊の上から着用していた。そして、この網目に木の枝や草を挿し込んで、敵の眼より身を守っていた。
このやり方は万国共通のようだ。
ソ軍の戦車などは、動く山という感じがする程、大きな木で車体を隠していた。



 いよいよ夏の日中の暑さが、大陸内部独特の夜の冷え込みに移りかけ、対岸に渡るようとの命令を待っていたところ、突入の命令ではなくて、「至急、後退せよ。夜襲中止」と、伝令が回ってきた。そのあと、その伝令を追うように乗馬の将校が来て、「大至急帰れ!」と、大声で命令を伝えた。
 爆薬をその場に投げ捨てて、立ち上がり、駆け足でもとの山の出発地点までくると、在満のロートル連中が私達の装具を持って待ちうけていてくれた。
 直ちに夜間行軍に移るとのこと、走って帰ったばかりなのに、休みもしないですぐに装具を身につけ、先頭の部隊より、順に行軍を起しはじめていたのに従いかけていた。

 そこへ「敵、戦車来襲、散開!」と、命令が出され、整列あるいは行軍を起していた部隊は、直ちに散開を開始しだした。その時、既に遅く、数台のソ軍重戦車の吐くロケット弾はうなりをあげて飛来し、右に左にと炸裂しだした。炸裂する砲弾のもと、現場は一瞬にして蛇に狙われた蛙の群の如き生地獄の様を呈した。( 1-37 に記載)

 低地にいた輜重隊シチョウタイの兵隊が、突然の火柱に伴う轟音に荒れ狂う馬を追っかけているのが、炸裂の際の照明で、ありありと照らしだされていた。敵の砲撃は極めて正確な照準であり、又、1回に5発続けて落下していたようだった。
 初めての砲撃ではあるし、しかも夜間だったので、炸裂の際の火花は大きく見え、火柱は高く突き上げているように思え、全く面くらった。手を延ばせば手先に当たりはしないかと思うくらいの高さの頭上を飛びかう砲弾のうなりごえが、ブルン、ブルンと、いかにも重だるそうに聞こえる時には、その着弾はすぐ近くだった。勢いよく、ビューン、とうなった時には遠方で落下するということを、誰もが期せずして体得した。ブルルン、ブルルン、ブルン、とだるそうなうなりごえが聞えたら、無意識のうちに伏せていた。

 そして、戦車といっしょに狙撃兵も接近してきたとか、低地にいた部隊は応戦しており、友軍の重機(重機関銃)、軽機(軽機関銃)がうなっていた。
 1大隊の1中隊長は、この時の砲撃の初弾の炸裂を浴びて戦死されたようだ。3大隊、9中隊の直江隊も、この砲撃を受けた際に、やはりこの低地にいたため、1番の犠牲者が出た。中隊長と中隊の兵との連絡不能に陥り、隊形は乱れ、その隊形の乱れが他の友軍の統率を攪乱する原因を作ったらしい。

 直江中尉は終始この西口の夜の戦闘の責任を自覚しておられたとか、後日、度々敵と正面衝突していて、8月の末、武装解除をした時には、同じ3大隊でありながら直江中尉の9中隊は、兵、下士官数名を残しただけで他は全員戦死した。結局は、日本の敗戦のため、何の報われることなく、年月は経過していってしまったが、日本軍伝統の、プライドをよくぞ維持してくれたことと思う。
 祖国日本の敗戦を、興安嶺の奥中で、血で背負って壮、その名は直江中尉の9中隊員、150名の諸氏。
 安らかなれ仇は忘れじ、興安嶺。ー当時の敵がい心溢れる偽わざる心境ー


 すさまじい砲弾の落下の後、こんどは逆に、耳の痛くなるような無気味な静けさの中を下る西口も又、名残り尽きないものがあった。またたく間に多数の戦友を失い、四方に立ち上がるソ軍の照明弾を望見しながら黙々と行軍していった。( 1-39 に記載)
 ソ軍の打ち上げる照明弾、信号弾の発見と同時に、すばやく、ばったりと伏せの姿勢をとった。真昼のように照らされているその数分間の伏せている時でさえも、うとうととしたこともあった。馬車が通り過ぎると、馬の尻尾を指先に巻きつけて歩き、歩きながら仮眠もした。明日はおろか、今おも知らない命、わだちの跡の溜り水や泥水をすすったりもしたことがあった。

 昼間は、上半身何も身につけていない裸でいたが、(大阪・夏の陣だといっていた)8月とはいっても、夜間は内地の冬と同じで、冬襦袢(冬のシャツのこと)2枚に、メリヤスの腹巻きをしていても、なお、毛穴の立つのが分かり、時には、うっすり霜ではないかと思うのに見舞われていた。
 馴れない大陸性気候という悪条件のもとで、ただ、大君のため、日本のためと、己を忘れた皇軍の姿は尊いものではなかったろうか。

 又、その時には知らなかったが、私の小隊で数名、吉林師道大学の島田教授(9中隊、直江隊員)と、吉林師道大学の同級生、斎藤 直明君(私と同じ日にアルシャンの20008部隊に入隊)が西口の戦闘で戦死していた。

・斎藤 直明君
胸部貫通銃創、年令19才、埼玉県出身

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