【14大隊のラーゲル】
天地根元作りの?
収容所
ラーゲルーーー収容所、家、などをこう呼んでいた。
なだらかな山の斜面に穴を掘り、直径15~20cmぐらいの丸太を積み重ねて作ってあった。丸太と丸太の間には、内側より麻のようなものがつめこんであって、隙間がふさいであった。内部は、2段装置がしてあり、斜面下側には、その二階にあたる部分に窓があって外の明りが入るようになっていた。
窓は、二重窓であって、二階の床板と同じぐらいの高さの場所にあった。だから、寝ていて外を見ると斜面を歩く人を見降ろす感じがしていた。
病棟にいた時、日中、外から他の兵舎の元気な兵が、内側からの人の顔と真っ正面からつき合わすようなかっこうになってもゆうゆうと、二重になっていた外の部分のガラスを取り外して持っていったことがある。
患者の兵が大声で、「ガラスが盗まれます。」と叫んでも、衛生兵には、何か異変のあったことは分っても具体的な事態がすぐにはのみこめず、やっと盗難の事実を確認し、防寒具をひっかけてから外に出たけどその時には、もう犯人は自分の兵舎に持ち帰り、破損個所の修理は終了していたことと思われる。
秋田県出身の成相上等兵が、内側より、外側のガラスを外されるのを見ていた。上等兵とて泥棒だとは思いもしていないことだった、衛生兵が窓の具合でもなおしているのかと思っていたのであった。
「わしの顔をすぐそこに見ていてね、平気でやっていたよ、にくづらげな顔だったよ。病棟だということを知っていてやっているから始末が悪いね、あっという間に、眼の前でとられてしまった。」と言っていた。
衛生兵が、事態をのみこみ、駆けつけるのに身じたくしても3分や5分はかかるから、その間に犯人はゆっくり逃げることができた。
その二重窓の外側の長さは二階の端から端までの長さがあり、兵舎の内部のガラス戸は引き戸になっていた。また内と外の間は30cmぐらいの隙間があった。こんな所にまでもと思ったけれど、この幅30cmぐらいの内側を、時おりよく小さな鼠が往来していた。
いい年をしたオッさん連中が、腹ばいになったり、腰をかがめたりして、「あっちへ行った。」「こっちへくるぞ。」と大さわぎしたあげく、結局は逃げられていた。狭い場所で小さくて動きの早い鼠と、栄失で動きのとろいオッさんとでは、勝負にならなかった。
夜中に枕の所をごそごそしたり、パンをかじったりしていたから、この鼠騒動は当分続いた。しかし、私がいる間には、とうとう捕えられなかった。
兵舎への入口の板戸は、入る時には引き手を引いてあけ、中に入ると戸の上に結んであるロープと、おもりのしかけで、戸は自動的にしまるようになっていた。
外の板戸をあけて中に入り、2mぐらい進むと地下に向かうようになっていた。
下に向ってやはり2mぐらい降りると、下の部屋の入口に2番目の板戸があった。この戸もまた、おもりによる自動閉鎖式だった。
兵舎の内部は、中央が通路で、両側に2段装置の板張りが作ってあった。
7中隊130名が入れたから、広さはかなりだった。20名は隣の兵舎に分散。
板の上にはむしろを敷き、食事をとったり就寝したりした。
下の者は、常に上の板の隙間から落ちるごみに悩まされた。
また上段と下段の温度差は激しく、上段の者は毛布もかけずに眠れても、下段の者は寒さのために眠れない夜をむかえることが重った。
当然のことながら、上段には下士官、兵長、上等兵などの古参兵、下段は初年兵。
兵舎の両方の入口近くに2個と1個計3個所ペーチカがあり、常に、室温18°Cが舎内当番の至上命令。
14大隊の入った兵舎は、すぐ近くにあった、ガダラの10大隊(広島の5師団が主カ)の兵が作ってくれたものであった。
彼等はソ軍とは一般も交えずに終戦を迎え、9月のはじめに、夏衣袴でシベリヤ入りした。到着した翌日、初雪の観迎を受け、ふるえ上ったということを聞かされた。
私達が到着したその日の中に、周囲に有鉄線張りの作業に出た。
山の上から、子どもを交えたソ連の地方人が多数よってきては、「ムイロー・イエス。」(石鹼があるか、という意味)と言っていた。
ソ連兵が空に向って威嚇射撃をしたら、皆山の向こうに消えていった。
ここでの有刺鉄線は、日本兵の逃亡防止ばかりでなく、ソ連地方人との接触を避けるためでもあったようだ。
もともと、この兵舎は『今、ウラジオストックは、帰国を待つ日本兵で満タンである。だから、ここで港があくまで待つのだ』と聞かされ、誰もそれを信じていた。
又兵舎に到着した夜も、「次の出発はそう遅くないから、病弱者は早く治療せい。」という通達も出された。
仮の住いという意識が誰にもあった。
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