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34.昭和21年新春の演芸会~高熱に倒れる

昭和21年新春

 除夜の鐘、そんなもの、こんなところにあるはずもないけれど、もしあったとて、吹雪でその音色の響きは吹き飛ばされたことだろう。
 たとえ抑留の身であっても正月は正月である。
 前々より、正月には何か変わったことがあるだろうというニュースが、収容所の中では盛んにささやかれていた。
 大雪を1歩1歩踏みわけながら2里(約8km)も歩いて山の奥に入り、各中隊ごとに門松を切ってきて入口に飾りつけた。
 ソ軍側や日本軍本部側の清掃検査も終え、新しい年への大きな変化を期待しながら【除夜の餅】の配給になるのを待ちわびた。
 1人について1個の【除夜の餅】という前宣伝はかなり景気のいい話題になった。夜の12時すぎまで待たされた挙句に各人に支給された餅は、餅だけでなく、不平だらだらの落胆の渦も同時に持ちこんでくれた。
 石ころではない。まぎれもなく餅。【除夜の餅】…この時だけのもの。
 しかし、餅でさえあればよいというものでもなかろうに。

 私こそ19才11か月の最年少の兵であるが、他の人はそれぞれに、故郷に帰れば社会に名の知れた人もあれば45才ぎりぎりになった人もいるし、妻子のある兵とて別に珍らしくもない。
 それらの大人を、「餅の配給をするから各中隊ともめしあげ※の準備をしておけ、炊事の方が終了次第に連絡する。」という通達によってさんざん待たせ、とうとう夜の12時もまわった頃、「ただ米」の半分ぐらいは交っている直径3cmにもならない極めて薄くて丸い…それでも餅には違いない…おおかね餅※を手にした時には、不平と大文句がでないのがむしろおかしかったかもしれない。


※めしあげ
炊事より、各中隊、または小隊までの食事を受領することを「めしあげ」と呼んでいた。各分隊よりめしあげの使役が出て、兵長とか上等兵とかの兵が引率の長となった1団で炊事に行き、炊事より食事の品を受領して帰隊した。それを各分隊に、人数に応じて分配していた。

※かね餅
餅米だけで餅ができておればよいが、ただ米が交っている場合には、ただ米が餅米よりも少し固いため、餅の中にただ米の粒が点在していて、一見してすぐそれと分かり、見るからにまずそうに感じる。そのようにただ米の交っている米でついた餅のことを【かねもち】といった。
私の家は先代より家業は精米業。お客さんの中には「餅をついたらおおかねになった。こんのいで、まざったのではないだろうか。」とか「餅米の籾をひく時に、ただが(ただ米のこと)まざったではないかいな。」などと因縁をつけてくる人もたまにはあったようだ。ひどいのになると、苗代に種籾を蒔く時にただ米と餅米を間違え、私のところでよその家のと入れかわるということはないものか、などと思う人もあったようだ。



 夜の1時も過ぎた頃、日報が伝えられた。
 「1日には終日作業中止。」
 「正月の給与は特別給与。」と、たったそれだけ。
 誰もが期待していたニュース、ダモイ東京(ロスケは、日本兵が帰国することをそのようにいっていた)は何もなかった。
 誰も、それが聞きたいばかりに無理して起きていた。だが、何もそれには触れずじまいだったから、がっかりして就寝した。
 …正月には帰国するという噂がまことしやかに所内には流れていた…

 それでも昭和21年1月1日の朝は気持ちよく起き、前日から作ってあった水で、分隊の全員(この時、既に高田候補生は入室していたから、10名の隊員は9名になっていた)顔を洗って朝の点呼に臨んだ。
 朝食後、皇居の遙拝式があった。朝食は2名に1本の高粱飯(飯盒1杯に詰めた高粱のご飯を2名で分けて食べること。それまでは、高粱は、日本人はあまり食べてはいなかった)に、1人1匹の「塩にしん」がついた。誰もそれに大満足していたから、いい気分になって式にでた。
 その献立が新春の全部であるが、それと同じ量、同じ献立で昼食も実施するという通達が、式のあと全隊員に伝えられた。誰も手をたたいてその通達を歓迎した。

 各中隊とも、その昼食の時に食事をしながら慰安のための演芸会が開かれることになった。
 私達の兵舎でも実施されたが、もう最初から、飛び入りだけでどんどんと進行していった。中隊長や各小隊長、班長も出てやり、中々にぎやかだった。
 全国各地の民謡を1人で全部うなる兵もあれば、舞踊、手品、わい談、落語と、もう舎内は爆笑の渦や拍手の連続だった。よくもまあ、といいたくなる程その芸人の多いこと。わけても、私の班の班長である吉高兵長の演じた【ガマの油】、どこから、いつそんな、と思われるような大道具、小道具をふりまわしての大熱演。あとでは、中隊長より特別賞として煙草の支給があった。
 私達もその煙草の分配にあやかったが、吉高兵長はその時の演技が衆人に認められ、後日、収容所内で編制された演芸部員におさまっていた。
 私の入室中、吉高兵長はたびたび病室に見舞いにきてくれていたが、そのたびにあちこちの兵舎からのお呼びに出かけた際のお礼の煙草を持ってきてくれた。
 雪の中でも、凍りついた土地にいても、人の情は変らない。兵舎の中に入れば、各分隊毎に舎内の柱に松の小枝を飾りつけたり、白布に書初めらしいことを大書したりして、気分だけなりとも正月の味わいをしようとしていた。

 しかし、人の運命と願望の差は、あまりにもひどい差があり過ぎた。
 私の分隊では正月2日の朝、既に昨年から入室していた高田候補生危篤の通報に接した。【日本に帰ることの願望】ペーチカの煙よりも軽く吹き飛んだ高田候補生。
 1月3日の夕方、世はまだ正月だというのに、無常の風に吹かれた候補生の冷えたなきがらを受けとり、兵舎の入口の横に置き、下る涙を吹雪とともに散らさねばならなかった。
 私の分隊の犠牲者第1号の高田候補生、座金の兵長さん。
 和歌山県出身の彼は商家の次男か三男であって、時おり和歌山のことを物語ってくれていた。
 気のやさしいインテリ。


 昭和21年1月4日、発疹チブス 第6兵舎入室
 昭和20年の12月末から、収容所内にしらみの媒介による【発疹チブス】が蔓延し相当な被害を受けた。
 この病気にかかると40°からの高熱が1週間から10日間ぐらいも続くのに何の手当てらしいこともなく、ただ氷で頭を冷やすだけだった。その挙句には脳を冒され(収容所ではこのことを脳症といっていた)たり、強度の栄養失調になっていた。下痢を生じ、やがてその下痢が血便となり、とうとうその血便が止まらないまま他界するというケースで、多数の同胞が空しく異国の凍土の下にその身を横たえた。

 私も、正月3日の午前中、吉澤上等兵(僧侶だった)や桑原一等兵らと水汲みの使役に出てから頭が痛くなり、午後は休業して就寝した。
 その日の午後はちょうど入浴のある時間帯になったので無理をして起き上がり、入浴して帰ったら発熱した。
 翌日、1月4日の朝、同じ分隊の天内アマウチ一等兵(いつもは本部つきの伝令をしていて夜しか分隊にはいなかった)に伴われて診察に行った。
 渋谷軍医より【栄失、並びに熱発※】という病名で入室の許可がだされた。


※栄養失調と熱発ということ。
熱の出ることは何でも熱発と呼んでいた。熱発でも、【マラリヤ】は病名をつけて呼んでいたようである。


 診察がすむとすぐに中隊に帰り、小門コカド上等兵(大阪の人、料理の専門家で召集兵。ソ軍参戦と同時に満洲国内に侵攻してきたソ軍の大戦車部隊に追いまくられ、東満のプハトウ飛行場の真ん中でその戦車に撃たれたりひき殺されたりした部隊の生き残り。8月10日の猛暑の中、1日中微動だにせず、死んだふりをしていたとのことだった)や天内一等兵が、私の装具を持ったり肩をかしてくれ、薄暗い兵舎内の階段を1歩1歩ふらつきながら上った。
 兵舎を出るとすぐに、雪に隠れていた高田侯補生のかばねを眺めた。
 小門上等兵がかがみこんで候補生の顔の雪を払いのけてくれた。
 雪の下から現われた真っ白い顔の候補生に両手を合わせて別れを告げ、第6兵舎(病棟)に向った。

 第6兵舎は病棟になっていて、私が横になっているところを衛生兵が注射をしたり毛布をかけたり、氷を口の中に入れてくれたぐらいのことしか頭の中に入っていない。
 健康体になった頃、第6兵舎に私が入室していた時のことを衛生兵が教えてくれたが、それによると、私も人並みに脳症(高熱のため意識障害のある疾患)を起し、看護の衛生兵を手こずらしていたらしい。
 また、私の危篤状態の時があって、中隊長や吉高兵長が夜間に病室まで駆けつけてくれたこともあったと聞かされた。
 私の記憶は第10兵舎前で、高田候補生の変わり果てた姿を拝んでから歩きだしたことまでで、第6兵舎に行くまでのことや着いてからのことはほとんど覚えていない。
 ソ連軍側より、ある期間中、餅米だけの補給があったらしく、毎日その餅米のお粥を衛生兵が2人がかりで、それを嫌っているのに私の口の中に無理やり注ぎ込んでくれたことを、ぼんやりと、夢のように覚えている。

 どうしたものか、お粥はどの病人でも黙って食べているのに、餅米のお粥が続きだしたら、急に患者の中からその餅米のお粥に食欲を失う者が続出してきて、衛生兵一同困ったそうである。
 そのため、第6兵舎だけは、病棟ということでただ米の特別支給米をソ軍側に申請して許可があったそうである。
 一般の中隊では、この餅米だけのご飯を何日も何日も食べさせられたそうである。これはうまい、と思って餅米のご飯を嬉しい特別給与だと喜んだのは、最初の一食だけだったそうである。

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