30.祖国日本敗戦の大打撃
ドイツ兵の捕虜に対しては(ゲルマンといっていたようだ)ソ連の地方人は、『ドイツの捕虜がきた。』と言っているが、日本人に対しては、ただ『日本人がきた。』としか言わないところをみてもわかる通り、我々は捕虜としての待遇はされておらず、『我々はどこまでも、大命により、武器を返納した皇軍の一員である』という中隊長の訓辞があった。
しかし『満洲国にいる時にちょっと満人に聞いたんだが、日本はやはり負けたんじゃないか』という者が出はじめた。
昭和20年11月の終わり頃、ソ軍側より支給された日本兵向けの宣伝紙である【日本新聞】を読んだ。もう失望という言葉だけでは、その時の収容所内を流れていた感情を言い尽せないほどの大打撃を受けた。( 2-30 記載)
まぎれもない事実、祖国、日本の大敗戦。
1週間ぐらいの間、その「日本新聞」に連載されていた日ソ両軍の詳細にわたる戦闘経過及び終末、大日本帝国滅亡の記事は、体の中から、何かがすうっと空に舞い上がるような思いがした。
ただ、内容については疑わしいこともあった。
「日本新聞」の3回目か4回目の頃、日ソの戦の経過の項で、興安嶺の戦闘の記事の中、日本軍の戦車何10台撃破、何10台大破、飛行機も数10機撃墜、捕虜何万、とか記載してあった。
興安嶺では、日本軍の戦車、飛行機などが作戦行動をしていたのに1回も出合ったこともないのに、ソ軍の華々しい戦果として記事になっていた。
ロスケの新聞は案外、針小棒大ではなかろうかと、それなりに、読む時にはある程度の割り引きが必要だということに気がつくだけの気分的なゆとりで読むようになった。
更に天皇は、恐らく、今次の大戦の最高責任者としてその責任を持たされるのではなかろうか、という憶測も収容所の中ではささやかれていた。
「日本新聞」で連日のように天皇制の歴史の一部……南朝、北朝時代にさかのぼる熊澤天皇物語……が続いたあと、【天皇制打倒】とか【日本共産党のスローガン】がついてまわり、しきりと天皇を批判していたから、誰も安心していた。
天皇陛下が健在であり、天皇制が今なお厳として存在しているからこそ、目の上のたんこぶのようなそれらの【天皇制】の廃止を叫ぶ言葉が出る。だから、昔ながらの日本の国は滅亡したのではない。天皇制はそのままで、国体※はそのままだと喜び合った。
※国体
戦後の国民体育大会のことではない。この言葉は、敗戦までは日本の国の生いたちは神の国だという一つの学説が日本の国民の思想上の主導権を握っていた。
だからこの言葉は、日本の国は、天皇によって支配されるべき国という意味にとったら、当らずとも遠くはない答えになるように思う。
紙面に載っていた【無条件降伏】の報だけは、疲労しきった心身にますます疲労の度を強くし、各人の心のしまりを、間違いなくがっくりとさせた。
「俺達、果して故郷に帰れるかな。今日は零下55℃だ。」極寒に加えて少量の給与、昔酷なまでもの労働は、ますます絶望感への拍車をかけた。
日本新聞は、日本内地の悲観的なことと、日本共産党の活躍と、それに有利な宣伝、天皇への悪らつな批判が多かった。
とうとうその新聞は、新ニュース源としての価値よりも、煙草の巻き紙とか便所用の紙として、万事不足しかない収容所の中では、常にその価値のため皆からその発行が待たれた。
といっても確かにニュース源であることには違いなかった。
「日本新聞」の発行所はハバロフスク、レーニン街と記載してあった。
新聞の文面は外国人が書いたもののように思われるいいまわしが多かった。
・私、君にそんなこと言わない
・私それ忘れた
・私行たい
やたら文のはじめに「私」をつけていた。…主語の省略とか、助詞の使用などの問題…
俳句も投稿されていた。これだけは、他の宣伝文とは、その質といい内容といい全く異質な感じのする格調の高いものだった。時おり、それらの俳句の一つひとつをあれこれと真面目に論じ合ったこともある。
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