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「【遺爪】【遺髪】」


*キャプション
 桐の箱
 出?の?既に
 仏間に納まりあるに
 吾が青春
 何で惜しもう
 ?が残ろう


 「さよなら。」の一言もかわすことすらなく「ニュータイス、ケン」の電報を昭和20年8月のはじめに受けて以来、いっさいが不明のまま終戦の日をむかえていた両親が、後日この品々を郵送で受領した時の心中は如何ばかりだったか。
 (吉林市の郊外を流れる大河、松花江沿岸にあった臨江門の門をくぐって通る満人の町の入口の局から入隊前に家宛に電報を打った。しかし、電文は、防衛上の理由で大巾に削られ、どこへ、いつ、などがないから、家の者には入隊したことしか分っていなかった)
 内地の部隊より、戦線に赴く時には部隊内に、遺爪、遺髪、遺書等を残して出た部隊もあったようだ。

 昭和20年3月30日、咸興の道立咸興商業で徴兵検査を受けた。
 以前は、甲種合格だけが現役兵として入隊していた。だんだん兵員の不足が生じた為19年にはもうそんなことはいわず、第一乙どころか、第三乙種までも現役兵だった。
 甲種合格以外は身体のどこかの部分に劣る個所をもっていた。当時の私は身長172cm、体重56kgというやせっぽちの上に難聴だったから第一乙種合格(単に、第一乙、といっていた)と判定された。
 その検査の後で配られた「奉公袋」※の中に上の遺髪などを入れる紙袋が入っていた。


※奉公袋
入隊する時に必要な最低限の身のまわり品等を入れる紐付の布袋
黄土色をしていた


 髪は遺髪袋に入れ、爪は別な紙袋に入れた。
 入隊前の7月の終りに、胸部疾患のため、内地に帰って療養することになった舞鶴市森宮町の馬場 宏司君に咸鏡南道の咸興師範学校ハムフンサーポンハッキョの卒業証書、卒業時に渡された朝鮮総督府の就職指示書、全羅南道の道庁ヒカリコウシュウ(光州のこと、同じ道内に、同音の公州があったから訓読みで区別していた。公州はオオヤケコウシュウといっていた。現在、光州は光州クワンチュと呼んでいるようだ)で、検査のため1日遅れの4月1日に手渡しされた教員の辞令、遺書等を手造りの封筒に入れて託した。
 そのおかげでそれらの書類等が手もとに残ることになった。
 海外勤務経験のある教員の履歴の証明を受けようとした時、それらの書類があったため、何の苦労することもなく、外務大臣官房人事課長の印入りの証明書、S.36.5.1.外地証明人事第4509号、4510号の送付を受けることができた。

 帰国した翌日の朝、仏壇の前に座ったら、母が仏壇の下の戸棚の引き出しから、くすくす泣くだけで物も言わず、私の手製の大型封筒を取り出し、その中からそれらの物を出してくれた。
 私自身、感慨無量、生あればこそか、満洲国で作った私の分身ともいうべきそれ等を手にとり、しげしげと見つめていると母は、一段とすすり泣きし、私にすがりついてきた。
 親は有難いもの。

 馬場君は、帰国するため医師の診断書等を揃え切符も購入して吉林を出たけれども、釜山で船を待つ間に終戦になってしまったそうである。
 終戦も終験、それは考えてもいなかった祖国の敗戦で終ったのだから馬場君も苦労して帰ったようである。
 幸い独身の上に荷物も少々だから動きやすかったようだから、どさくさにまぎれて一もうけを図る運送グループの非公式の運搬船(やみぶね、といっていた)を見つけて下関に上陸したそうである。
 下関で私の依頼した封筒を投函してくれている。ところが、両親にしてみれば日本の切手の貼ってある私の手紙が終戦後に家に到着したから驚いたようだ。
 中の手紙に、舞鶴の人に頼んだ、と、馬場君のことにもふれていたから後では事の次第が分ったものの、遺髪などが飛び出したから心労の度はいっきに増したことと思う。
 その頃は祖母が生存していたが、祖母は、時おり人がいないと思えばこっそりと仏壇の下から取り出しては泣いていたそうである。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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