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14. 昭和20年8月25日 号什台の戦闘・後編

 夕方、ソ連軍は全戦線とも一斉に後退しだした。

 砲声が止絶え、立ち上がることができてから、ソ軍側の砲兵陣地前の高台に駆け上った。
 そこの占領した場所に将校の乗用車馬車牛車が数台置きざりにされていた。
 牛車や馬車には荷物が満載してあり、又、それらを引いていた牛とか馬は車をつけたまま、傷だらけになって横たわっていた。
 これらの車の中や荷台の中から、色々な物品が持ち出された。
 香水、トランプ、安全剃刀、ミルク、大豆、牛肉、ワイシャツ、ナイフなど、種々の日用雑貨品や食料品等があった。
 又、それらの私物の中に、郵便物の束があったから、1枚1枚、大いそぎでめくり郵便切手をはぎとった。
 相当数あったけれども、後日、切手を紙からはぎとったり、水洗いし乾かしている時に、隊の人より、「1枚記念に。」と請われ、だんだん残り少なくなってきた。
 それでも、1-69にあるように、12枚持ち帰ることができた。
 単なる小さい紙片に過ぎない使用済みの外国切手だが、私にとっては、2度と入手不可能の切手である。

 もともと、強行突破ということが当初の命令であったので、25日の朝から積極的な行動には出ていなかった。
 友軍は、戦火が速さかり、夕暗が迫りだした五重台原頭、日章旗を翻して各部隊毎に整列しはじめた。
 一方、行方不明の戦友を探したり、戦死者を埋め、土をかけた。(私が戦死者の屍に土をかけたことは、この時だけである。)( 1-59 に記載)
 負傷兵は手当てを受け中隊の後尾の傷病兵だけの列に移動していた。

 はじめて、戦場整理らしいことをしてから、たおれていた赤牛の肉を切りとり、枯木をかき集めて燃やし、帯剣の先にその肉を突き刺し、火にかけた。
 火力は弱いのに、肉は厚く、時間の方は、寸秒もゆとりのない戦闘直後という条件のもとの焼き肉料理が、そうそうすばらしい商品価値のあるものであるはずはなかった。半焼けの肉の塊を食べ、なまぬるい、たまり水を水筒につめたりした。
 腹を作ったり、次の行軍準備をしたりして、少しは気がゆるんだような記憶が残っている。
 それらのことをする間に、私には聞えなかったが、他の兵達は、皆、かすかながら狼の遠吠えが聞えるといって耳をすませていた。

 戦闘終了の直後、8月9日に入隊した同じ分隊の2名の韓国人同年兵、大川、宗本君は、水汲みと食料探しに出たまま中隊に復帰しなかった。逃亡したことと思う。誰も憤慨していた。
 しかしながら集落を遠く離れたら、飢えた狼が、喉を鳴らして待ち受けている。
 又、小銃の1挺でも身につけておれば、その当時は、日本人と韓国人の区別のつかなかったソ軍兵に射殺されていたかもしれない、果して、彼等は、この興安嶺の奥地から無事に脱出することができただろうか、と分隊内で話し合ったこともある。
 彼等は、おそらく、8月24日と25日の強行突破に伴った戦闘で、こりこりし、命のある間にと思って逃亡を決行したことと思う。
 私達の分隊だけでなく、他の分隊でも、韓国人の脱走兵はかなりあったようだった。

 韓国人の中には、軍事訓練を全然受けたことのない者や、日本語も解しかねるような質の者も交っていたため、命令とか通達も、すぐにはのみこめず、むざむざと、無駄な戦死をしたのも多いようだった。
 日本語の解せない宗本君が、夜間行軍の際、小銃の安全装置を外し、銃を肩に負ったまま発砲したことがある。この時、分隊長は、この日本語の分らない宗本君の小銃弾は小銃より抜きとり、残りの小銃弾も全部ひきあげていた。だから、いざ発射の必要に迫られた時にも、射撃はできなかったはずである。

 たとえ韓国籍の外国人といえども、皇軍の一員であり、また、故郷には、父母兄弟・妻子の待つある身なれば、満人の民家にうまく飛び込んでいてくれたらという感情にだんだん分隊員の姿勢が傾いていた。

 乃木将軍の野戦攻城を思わせるような、友軍、ソ軍と入り乱れた散兵戦を終了。
 硝煙の臭いただよい、どこともなく血なまぐさい殺伐な空気を身に感じ薄暗くなった高原を、荒縄でぐるぐる巻きの2名のソ軍捕虜を先頭に、分捕った兵器を携え、行軍にかかった。

 8月25日の戦闘は、107師団総当りの戦闘で、彼我の犠牲は少なからぬもの
があった。
 大勢は、重戦車と制空権を握っているソ軍側に圧倒的な優勢さがあった。
 兵の数では、日本軍の方が多かったようだ。
 第9中隊直江隊は、部隊きっての悲劇の中隊となった。
 下士官と兵数名が武装解除の日まで生存していたに過ぎなかった。
 昭和21年に入院した、シベリヤ、チタ州ヒイロク市1936病院の坂本通訳はこの日の戦闘で、ソ軍の軍旗を分捕ったと話してくれたことがあった。

 戦闘終了の後、休むいとまもなく行軍した25日の夜間行軍ぐらい、その印象がいつまでも残る、長く、辛く、そして、無気味な行軍はなかった。
 道らしいもののない夜の荒原、行けども行けども、草原や、石ころがごろごろしていた。まるで砂漠のような所ばかり、休憩は全くなく、時々思いだしたように、パンパンと銃声がしていた。

 24日早朝より、強行軍の連続と、引き続く戦闘のために長時間の極度の緊張で体力、気力は限界まできており、くたくたに疲労しきっていた。
 それでも、こんな所で隊列から落後してはならない。
 とにかく、隊から離れては、あとにあるのはただ「死」しかない。小便も、「小1町、大8町。」(行軍中に小便するために隊を離れたら、隊より、1町ほど遅れるし、同じく、大便でもしたら8町も遅れてしまう、という戒めの諺)にならないよう、歩きながら用を足した。
 喉はからからに渇いていた。2日ぐらいぶっ通し眠っても不足と思うような睡眠不足、1貫目の肉と100個の鶏卵を1度に食べても足らない栄養の不足、といった自分の体の中の不足不平分子とのたたかい(よくいう自己との対決)を続けながら歩きまくった。
 お守りさんを袋の上から、ぐっと握りしめたり、分隊長や小隊長に怒鳴られながらもともかく、皆について行った。
 私語を交す兵は1名もいない。
 時々、銃を抱いたまま眠りこけて1人が倒れ、次々と4~5名の兵がつまずいて倒れ、何やら、むにゃむにゃ訳の分らんことをつぶやいては起き上がり、歩いていた。
 頭は眠っているのに、脚の方は歩いていたのである。
 足の速い輓馬隊が後方より追ってきて、隊の中を縦断するような形で行き過ぎようとした時には、車輪で足をひかれたり、荷台で銃を叩き落されたりした兵もいた。
 ちょうど、負傷兵らしい者の便乗した1群の馬車が来た時、夢中で馬の尻尾をつかまえて歩いた。何やら、私の名を呼ぶような気がして、手を離したら、小野寺古兵が「しっかりしろ!」と、私の銃を抱きとってくれたことがあった。

 そのあとのことと思うが、同じ小隊の児玉班長が、どこでつかまえたか、大きな赤牛をひいていた。「明日になったら煮て食うんだから、夜があけるまで、牛追いの手伝いをしてくれ。」と、条件を付けて頼みこんできた。
 そのおかげで、疲れてはいるのに、眠くはないようになった。
 牛追いの体験は初めてで、児玉班長と2人で惨々たる夜あかしをした。
 内地の牛は、鼻壁に穴をあけ、そこに、『鼻ぐり』が通してあるから、そう牛に馴れていなくても、追いたてやすいけれど、満洲で放し飼いの牛にはそんな「鼻ぐり」なんかはつけていない。大きな首に大いロープが1本結んであるだけだった。
 前者が停止すれば自分も停止。前者が動きだせば自分も動きだす、頭のよい馬と進い、牛の方は、人間の都合とは正反対ばかりの道を歩いていた。
 車があればその上に巨体を横たえて食べだす。銃でこずいたりロープを強く引いたりして、やっとのことで立ち上ってもらっても、次にどこへ行くかは、人間の都合ではなく、牛自身の考え次第。
 今まできた進行方向の逆にいったり、横に大きくそれてみたり、足が速くなったかと思えば遅くなってみたり、主体はすべて、明日は煮て食われるは
ずの赤牛だった。
 途中で長い木ぎれを拾った班長が、それで牛の尻を定期的に、ぱしっ、ぱしっ、と叩きまくり、私がロープの引き役になってから牛はあまり道草をしなくなったような気がした。
 日本内地の牛のように、牛の後から、手綱を持って追うやり方もしてみたが、あまり効率はよくなかった。
 前で引いていると、牛の曲った角が目に入り、その方がこわかった。


 どこを見ても水はありそうもない。
 草の上をタオルに紐をつけて歩く方法、隊の横に出てその方法で夜露をしみこませてそのしぼった水分で喉を少しでも潤おす、いいアイデアのように見えて、一斉に前後の兵がりだした。だがすぐ潮が引くように一斉にその流行は止んでしまった。
 とても、そんなことで、しぼりとれる程の夜露はなく、又、しぼりとった水が飲めるほどのきれいなタオルを持っている兵はいなかった。
 誰かが「こんなの駄目。」と思って中止したら、その物真似も中止したものらしい。

 朝方になり、ジャライトッキという集落に、あと1里半ぐらいという大きな河べりの小集落に到着し、ほっとした。
 苦労して歩いた赤牛には、あたりが明るくなると共に、ささやかな愛情を感じていた。
 朝食に支給された赤牛の肉は、故事来歴、その肉の出所など説明する必要は全くいらない、演題の題にもならない大きさしかなかった。
 小学校の購買で取り扱っている「消しゴム」ぐらいの大きさの肉が、1人に1個、それでこの講演は終了。はい。ご苦労さんでした。

 きれいな大河の水を心ゆくまで飲み、顔を洗った。
 そこの民家で塩や粟などを手に入れて食べ、初めて、身も心も、人間らしい気持ちになりかけた。

その河端の草の中で、先日の感想や、生々しい体験を話し合っていた。筒手の平野古兵は全部撃ったと語り、小野寺古兵はくやしがっていた。
 分隊長は、分隊員の負傷していなかったことを喜び、田中古兵が中隊に復帰してこないことや、韓国人の大川、宗本君の逃亡などについて心配していた。

 皆が休んでいるところへ、やっと、班の位置を探しあてて、第2弾薬手の田中古兵が帰りついてきた。
 銃を持って立ち上がった小野寺古兵が、「どこへ行っていた。戦場離脱だ。こっちへこい。射殺してやる!」と、田中古兵の手をつかんだ。
 平野古兵が必死になってそれをなだめた。
 田中古兵が復帰したのを見た分隊長は、もうその時は涙声で、「ご苦労!よく帰った。」とだけ言って、すぐに小隊長の所へその旨の報告に行った。
 小隊長の報告から帰ってきた分隊長と平野古兵、それに、「射殺してやる!」といきり立った小野寺古兵、みんなすすり泣いた。
 田中古兵は何も言えずにその場につっ立っていた。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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