母は、いくつになっても子どもの話に耳を傾けることはなく、ただひたすら自分の思い通りにならないとキレる、そんな親だった。 殴られたり、蹴られたり、怒鳴られたり。 私はいつも母の前ではビクビクしていたが、大きくなるにつれ母をいかにかわすか、ばかり考えるようになっていった。 ただひたすら恐い恐い母だった。 ところがそんな母のけっこうな間抜けっぷりを見る。 買い物に行って、お金だけ支払って買った物は置いてくる。 大抵午前中に買い物に出掛けて行くが、家に戻るまで気付かず、学校から帰っ
小さい頃から気のいい長男は、特に危ない事をするワケでもなく、聞き分けのいい子で、育てやすく、のんびりとした性格だった。 そんな長男が4年生の時、学校から電話があり担任の先生が「今から学校にきて頂けますか?」との事だった。 何事?うちの子はいったい何をやらかした? 放課後の教室まで行くと、数名の子ども達が席について一生懸命プリントの問題に取り組んでいた。その中に1人、泣きながらプリントをしている息子が居た。 先生から、ここのところ息子は宿題をしてなくて、それを誤魔化すウソ
私は小学生の頃まで、クラスの中でも背が低い方で、整列した時いつも真ん中より前だった。でも姉はもっと小さかった。 姉が幼稚園の時の集合写真を見ると、背が低い子達が1番前に座って写っているが、その中でも頭が一段低いのが姉だった。 姉が小学校1、2年生頃の話。 体育の授業で跳び箱を、姉は小さい体ながら誰よりもよく跳んだ。 教室で先生はみんなの前で褒めたらしい。小さい体でポンポンとよく跳ぶ、と。 私ならすごく嬉しい事なのだが、姉は「そんな事をなんでみんなの前で言うの。めちゃくちゃ腹
私は母が恐くて、母の前では上手く話すことができず、いつも緊張しては“アヤヤオヨヨ”になってしまっていた。何を話してもその話し方は言い訳がましかったり、支離滅裂な言い方になったり。どうも上手く話すことができない。 話は遮られ、内容は理解されず怒られる。 (ちがうちがう!そうゆうことじゃなくて!) (私が何を言いたいのかちゃんと聞いてよ!) と、無理な期待だったことに毎回打ちひしがれるのだ。 そんな事が日々起こり、自分の頼りなさが情けなかった。 学校の先生や親戚のおばちゃん、お店
長男は、やはり最初に生まれた子どもだからか、小さい頃は特に、どこかおっとりしたところがあった。 2歳くらいの頃。小さなお砂場セットを持って公園の砂場に行った時の事。 スコップで一生懸命砂をすくってバケツに入れていたら、息子より少し大きい子が来て、息子の手からスコップを無理矢理取って行った。 私は、げげっ!と思ったが当の本人は泣くわけでもなく、スコップを握っていた手を見たかと思うと、足元に転がっていたクマデを手に取り、何事もなかったように砂を掘り始めた。私の方が『取られたのに怒
姉は私より3歳年上で、3月生まれなので4学年離れている。 ある日突然言われた。 「あんたのことなんか、嫌いや」と。 ハッキリ、キッパリ言われた。 まあ、そうやろうね。知ってたけど。 姉は母の言う事をきかない妹が許せなかったのだ。 「あんたは、なんでお母ちゃんの言う事きかへんのよ!」とよく言っていた。 姉は母のように私に対して手をあげることはなかったものの、完璧に母の小型版だったので、姉に対してもまた飲み込んだ言葉はいっぱいあった。 姉に子どもができてからも、自分の子どもに対
中学生、高校生の多感な時期。 私は学校から家に帰るのが苦痛だった。 学校に行くのが苦痛で・・・という子ども達の話はよく聞くことだが、 それは本当に大変な苦しみだと思う。 私はその逆だったのだが、それはそれでしんどかった。 その頃、私は要らない子なんだと本当に思っていたし、産まれてこなかった方がよかったんだな、とも感じていた。 高校生だったある日、母が電話しているのを聞いてしまった。 「もうあの子はグレてもしょうがないわ!」 「世の中に警察がなかったら殺したいわ!」 げげ・・
母と買い物に行くと、お菓子を買って欲しいと思っていてもとても言えず、横目でチラチラ見ながらお店の中をついて行った。 たまに、本当にたまに「好きな物買い」と言ってくれることがあるが、何にしよかな~と嬉しくて選んでいると、「早くし!」と怒られる。 おまけ付きの、例えばグリコのキャラメルとかを選ぶと、「そんなもん!」と言い、「これにしとき!」と結局母が選んだ物になる。 自分の欲しいものは買ってもらえない。 わかっているのに、次に「好きな物買い」と言われたら、ドキドキしながらも、ちょ
前にも書いたけど、子どもの時から母に「本を読め」と言われ続けて、それでも本が面白いワケがないと読もうとしなかった私だけど、大人になって自分の子どもができたら、絵本を読んであげたいと中学生の頃にはしっかり意識していた。 その時代”声優ブーム”があり、クラスの友だちと休み時間にはそんな話で盛り上がっていたし、公言はしなかったが、実はひっそりと自分も声優になりたいと思っていた。なれるワケがない。声優になりたいなどと母に夢を語れば、どんなに罵倒されるか考えただけで恐ろしい。傷つきたく
私は、幼い頃から絵本も読まなかった。姉は、小学校の頃、漫画雑誌を読んでいたけど、私は漫画雑誌も読まなかった。 母から聞いた話では、私は幼稚園に入る前から平仮名は読めていたという。 しつこく、しつこく「これなに?」を連発して、文字を覚えていったとか。 だからといって、じゃあ子どもに絵本でも買ってあげようかと思わなかったのか、家に絵本があった記憶がない。 幼稚園の時、『わんわん物語』というディズニー映画に連れて行ってもらい、帰りに『わんわん物語』の絵本を買ってもらった。その本は
母にはどんな些細なことでも言い返すことはできなかった。 まだ子どもだった私は、自分の思ってることを上手く言えず、何か言おうものなら遮られて、何十倍にもなって返ってくる。 最後にはきまって「お母ちゃんの言うこと聞いといたらええねん!」と言われ、どつかれる。 恐ろしいことにそれは、大きくなっても変わることはなかった。 そうすると、だんだん当たり障りのないことしか言わなくなっていく。 だんだん誤魔化すようになっていく。 母の顔色を見、空気を読み、『さわらぬ母に祟りなし』になっていっ
父が入院し、母は病室に付きっきりで週一回自宅に戻るということが、しばらく続いていた時の話。 その頃私は、学校から誰も居ない家に帰ってくる日々。 ある日、制服を着替えていたら電話が鳴った。 受話器を取り「もしもし」と言うと、間髪いれずに「ゆうちゃん?」と言われた。年配の女の人の声。 私を『ゆうちゃん』と呼ぶのは親戚のおばさん達しかいない。 「お母さん居る?」と聞かれたので「病院に行ってる」と返した。 「え?どこか具合悪いの?」 「いや、お父ちゃんが入院してるから。」 「ええ!
私は父が好きだった。 母には叱られてばかりで、怒鳴られ、どつかれ、蹴られたこともある。 洋裁の、あの少し厚みのある物差しで叩かれ、見事に真っ二つに折れてしまったこともあった。 でも、父には叱られたことはなかった。かといって、甘やかされていたわけでもなかった。 仕事をしている時の父は、厳しそうな感じが近寄りがたかった。 でもそれが、カッコよくもあった。 家での父は、楽しくて面白い人だった。 幼い頃、お風呂は絶対父と入った。湯船に浸かりながら機嫌良く歌を歌っていた父。その歌を聞
私が小学6年生の時のこと。 母が「これからは靴下、ハンカチなんかの小物は自分で洗いや」と言い、裏庭に、といっても洗濯機と大きなソテツの鉢植えだけが置いている狭い狭いところなのだけれど、そこに連れて行かれた。 そこにはもうタライと洗濯板が用意されていた。 母は私に洗濯板の使い方を教えた。 ただでさえめんどくさいのがキライな私には、もはや苦痛でしかなかった。 それからというもの、小物の洗濯は一切してくれなかった。 仕方なく、日曜日になると裏庭に行き、タライに水を張り、洗剤を入れ
私は、小さい頃から極度の人見知りで、馴染みのない人、馴染みのない場所には緊張しまくっていた。 父の仕事関係の人の家に招かれたことがあった。 父と母は幼い私を連れて訪問した。 そこは広い庭に黄色や白の大輪の菊がたくさん栽培されていた。 きっと父に自分が丹精して育てた菊を見せたかったのだろう。父が庭で菊を見せてもらっている間、母と私は部屋でお茶を頂いていた。 目の前に出された菓子鉢には、美味しそうなお菓子が数々入っていた。 その前で私は緊張で固まっていた。隣に母が座っているだ
小学生の頃の話。 学校帰りに友だちと遊ぶ約束をしては、お互いの家に行ったり来たりした。 友だちの家はどの子の家も居心地がよかった。 行くと、友だちのお母さんがおやつやジュースを出してくれた。 帰りに友だちのお母さんに「ありがとう」と挨拶すると、優しい声で 「もう帰るの?またおいでね」と言ってくれた。 うちに遊びに来てくれても、おやつやジュースは出てこない。ましてや 夕方5時頃になると、母は友だちに「もう5時やで。はよ帰り」と言う。 (友だちになんでそんな言い方するんや) 私