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せいきょういく

通常、「せいきょういく」といえば「性教育」ですが、私の育ったMニュータウン(M園)では、「生協行く」と解釈されます。生協はM園開拓期から、その中心に鎮座し、M園民の食生活、のみならず文化面も担ってきました。隣にはエンドーチェーンがありましたが、2階にゲームセンターがあったため、生活指導の先生や警察官の巡回が頻回で、幼いながらアンタッチャブルな場所ととらえていました。また、私の母が生協の組合構成員?だった(今も)影響で生協原理主義のマインドコントロールを受けていたかもしれません。中学校の家庭科実習で食材を買いにクラスメイトとエンドーチェーンに行った時、普通のスーパーマーケットだったので、拍子抜けしました。

生協と私

話は生協に戻ります。昔のM園生協入口は今と異なり、階段をあがった少し上にありました。入口手前に大きな生協のポールがありました。今より住人は若く、人数も多かったので、賑わってた印象があります。2階には文房具屋、本屋、衣料店、床屋、ラーメン屋がありました。文房具屋で、写しがみ、ゴム板と彫刻刀を買って、阪神タイガースのマークを彫り、なぜか年賀状にしました。

これ

https://hanshintigers.jp/data/uniform/design.html

本屋ではコロコロと学研の科学と学習を定期購読。エンドーチェーンのゲームセンターには行かない“あらし“でした。中学校の同級生で、非常に真面目と言われていたK君が「冒険してもいい頃」を熱読していたところを目撃されたために、主人公の「小金井」というあだ名になってしまいました。かわいそうに。
床屋は物心つかない頃から高校生まで通っていました。いつも同じ曜日、時間に行ってたためか、髪を切られている時は、ラジオからコーセー歌謡ベストテン(現 JA全農 COUNTDOWM JAPAN)のあの音楽が流れていました。

ラーメン屋には割と大きくなってから、そう中学生以降から行き始めました。母の体調?いや、単に面倒臭かったのか、土曜日や休校日の昼に食べに行きました。おばさん2人でやっていましたが、お互い仲が悪い。時に罵り合いながらラーメンを作っていました。でも、美味しい。私は麻婆ラーメンが大好物でした。

生協には3階があった(事実誤認かも)。

実は生協には3階があった!はずです。そこでは子供会でお楽しみ会をやったり、人形劇があったり、下記のような教育映画をやったりしていました。原爆や戦争の映画は怖くてトラウマになりました。人形劇では会場に入りきれないほど子供がいました。

ショッピングセンター

生協の床屋から、外に出て階段を降りると駐車場とショッピングセンターでした。ショッピングセンターにやなぎや模型店がありました。当時、ガンプラブームでした。私も腕の連結が脆弱なガンダムやザクなどいっぱい買いました。399円だったかな。模型店のカウンター脇に鉄道模型のジオラマがあってずっと眺めていました。店長さんの奥さんは、小さい私が見てもびっくりするほど美人な方でした。しかしながら、お若くして亡くなられたとか。その後、やなぎや模型店は中心市街地に移転しました。高校生になって訪れたら、まだあのジオラマが飾ってあって嬉しかったです。その他、時代によってですが、パン屋さん、キャメルマート、ファミコンショップ、薬屋さん、居酒屋もありました。

ベルフ松園

高校生の時にエンドーチェーンがパチンコ店になりました。実家を離れてしばらく経ち、いつの間にか、生協もベルフM園にリニューアルしました。入口の階段は無くなりました。あの険悪な雰囲気のラーメン屋も違うラーメン屋になりました。床屋も無くなりましたが、当時の店員さん(店長さん夫婦?)が近くに「ヒラトヤ理容店 せいきょう」として営業しています。次男が赤ちゃんだった時、散髪に連れて行きました。コーセー歌謡ベストテンは流れていなかった。両親は今日もせいきょういくです。正直なところ、サンタウンにあるユニバースの方が安いのになと思うのですが、生協原理主義者の母は生協ブランドに固執しています。

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