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短編小説『ベルガモット』③

母は本当にいい人だった。
道に咲く花に立ち止まって微笑むような人だった。
かといって、頭の中お花畑みたいな人じゃなかった。苦労を知らない箱入り娘でもなかった。

物心つく前に実母がいなくなり、アル中の父親から殴られて育った。
結婚はしたい人とできずに、父親がある日突然連れてきたよくわからないのと一緒にさせられた。それでも子供は欲しいとねがっていたけど何度も流産して、もう諦めかけた頃やっと無事に私を産んでくれた。

自分の父はいわゆるろくでなしで、飲む・打つ・買うまみれのひとだったから母のしんどさは想像に余りある。
そんな父は好き勝手してきた不摂生が祟って自分が十歳のころ亡くなった。そもそも生きてる時からろくに働いてない人だったから、母の生活は別に変らず、昼も夜も働いて自分を短大にまで行かせてくれた。

そんな母がなんでクモ膜下出血なんていう不意打ちを喰らわないといけなかったのか?(いや、わかってる。無理をしてきたからなのは)
就職も決まってこれから少しずつ恩返しがしたかったのに。それこそ、もしいい人がいたなら今度こそ幸せな結婚をして欲しかったのに。

だから受け入れられなかった。なんで?なんで母みたいな人が。なんで…
どんなにがんばって、どんなにまっとうに生きたって『理不尽』という名の悪魔は誰にでもやってくることを知ってなんかもうどうでもよくなった。
何を食べようが、何を見聞きしようが、何を生業にしようが、全部がくだらなく思えた。
どうせ味がしないならなんでもいい。
一日三食を止めた。朝はプロテインドリンク。昼は水分とアメかガム。夜はなんだろう?酒と乾きもの程度か?そんな日常が二年前から続いている。

そして思い出した。母が亡くなったと知らせを受けた日は陽一と会う約束をしていた。でも頭が取っ散らかってキャンセルの電話を忘れたまま実家へ飛んだ。全く連絡が取れない自分に、陽一は何十回と電話をしたらしい。気づいたのは確か葬式が始まる数十分前。
『もしもし里香?やっと通じた。どうした?なんかあったか?』
その時、陽一を『ウザい』と思ってしまったことを思い出す。
『うん、お母さんが急に死んだ』
『…?…‼なんで?大丈夫か?手伝いに行くぞ』
『なんとかなるから来なくていい』

これを機に自分から彼に連絡することはなくなった。日常が戻ってからも、彼が会おうといえば会ったし、しばらく忙しくて会えないと言えば会わなかったし。気づけば自分のマンションに時々来るだけの付き合いになっていた。
これじゃあ飽きられても仕方ない。
そういえば、いつだったか、自分がベルガモット精油を嗅いでいた時、
『里香ってさ、その時だけはマシな顔になるよな。俺、いなくてもよくない?』彼はそう言っていた。

 自分がアロマテラピーを知ったのは母が亡くなって半年ほど経ったころ。
会社の同僚がデスクに小石みたいなものをガラスの器に入れて置いているのに気付いた
『それ何?』
『あ、これ?ローズマリーのアロマ垂らしてあるの。ほら、ランチ食べた後ってどうしても眠くなるでしょ?頭がすっきりするって言われてるから一応置いてるんだ。ほら、こんな匂い』
そう言って彼女はその小石を自分の顔に近づけてきた。
匂いがしなくなっていることは誰にも話してなかったから少し焦った。
『いい匂い』とか言っておけば問題ないかと嗅ぐふりをしてみた。

・・・・?ん?あれ?

確かに匂いを感じた。草みたいな、頭のもやりが晴れるような。
 彼女に教えてもらった専門店で買って以来、ドはまりした。
相変わらず、食事の時は味も匂いもわからない。でもこの小瓶だけが自分に感覚を返してくれた。
最初に買いに行ったとき、初心者には柑橘系の香りが使いやすいとスタッフから聞いて、オレンジ、レモン、ライムを買った。朝起きてレモンを香らせ、頭をすっきりさせた。オレンジとライムは会社のデスクに常備してしょっちゅう嗅いだ。
そんな自分にベルガモットをくれたのは、陽一だった。

『里香ってさ、その時だけはマシな顔になるよな。俺、いなくてもよくない?』
初めて知ったその香りが心地良くて小瓶の前で笑ったとき、陽一はそう言ったんだ。自分が好きで好きになったいつもの『疲れた顔』で。
なのになんで彼までどうでもいいと思うようになった?

飲み終わった二本目の缶を置き、もう一度ベルガモットを手に取ってふたを開いた。今度は堰を切ったような勢いで涙が流れた。
スマホを手に取り、陽一に電話を掛ける。
十コール目くらいで出た彼。なにも言わない相手に、
『あの時のベルガモット、ありがとう』
と言うと、ふっと笑うような息使いの後、
『なんで今それ言う?』
『今日、うちに来る?』
『いやさっき電話した時、俺の話聞いてた?』
『聞いてたけど忘れた。もう一回言いに来てよ』
『里香ってほんとにつかみどころないよな。こっちの予想の上行くっていうか。』
『お母さんが死んだってさっきやっと理解できた。そしたら、今までどうでもいいとか思ってたことが全然そうじゃないって気づいて―』
『だから?』
『だから、わたしは陽一に飽きてない』
『話が噛み合ってないけど』
『わたしにベルガモットを教えてくれたのは陽一だから、疲れた顔でこれを選んでくれた陽一がまだ―』
『うん、わかった。とりあえずそっち行くわ』
                                完





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