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学校教育はどのようにして制度疲労を起こしたのか

 バス停や駅のホームで待っている人の多くがスマホをのぞき込んでいる。バスや電車に乗車してからも。いつからそうなったのだろう。少なくともガラケーの頃は多数派を形成すことはなかったように思う。
 情報を得る手段として、今のようにそれを得る側の主体性が尊重されるネットが主流に至るまでの変遷をたどり、その変化に適応しきれなかった学校教育との関係を学校教育制度や家庭環境から考えてみたい。

 江戸時代後期には、後の小学校の母体となる郷学や寺子屋が数万校、中等・高等諸学校の母体となる藩校は約270校、さらに後の私立学校の母体となる私塾が1500あったといわれる。
 パソコンはもとより、テレビやラジオ、新聞すらない時代。儒学を主とする漢学塾が隆盛を誇り、幕末期には、習字塾、算学塾(そろばん塾)、国学塾、洋学塾など、さまざまな種類の私塾が発達した。
 この頃、民衆が情報を知る手段としては、そうした教育機関での伝承あるいは模写、そうしてそこで話される四方山話であったと考えられる。
 つまり情報を得る手段は、対面を基本とする口伝という時代だった。それ故、ところ変われば目的も内容も程度も変わるという状況が続いた。

 そうして迎えた開国。明治政府の近代化政策の柱の一つが近代的な教育制度の普及だった。明治5年、全国の教育行政を文部省が統轄することを明示した学制が発布、12年からは教育令により学区制を廃止し町村を基盤に小学校を設置、14年には「小学校教則網領」を制定し、15年頃から全国的に教育が統一化された。
実は江戸後期や明治もはじめの頃までは、年齢による学級編成はされていなかった。個々の発達段階や進度に応じて、個別に指導を受ける、あるいは集団で授業を受けるにしても、異年齢の児童生徒が一緒に授業を受ける場合もあった。何を学んだかではなく、何を身に付けたかを重視する修得主義が主流だった。年齢にかかわらず、同レベルの子どもたちが同内容の授業を受けることができていた。しかし、それでは量的・時間的に欧米の近代化に追いつくことができないと判断、日本の教育は年限主義(年齢を物事の決定要因としておく考え方)をもとに学年を決め、全国で教育内容を統一した。しかも、修得主義ではなく、履修主義(所定の教育課程を履修することを重視する考え方)に方向を転換した。
 これは近代化が遅れていた日本という国を、世界で勝負できる国にまで発展させることに大きく寄与した。全国の小さな町や村にまで学校ができ、年限主義でどんどん入学させ、一つの教室に50人も60人も入れて一人の教師が決められたカリキュラムを教える。国策として行われたこの方法で就学率が大きく上がった。いわゆる最低限度の「読み・書き・そろばん」を身に付けた国民の大量生産に成功したわけである。

 では令和の今はどうであろう。満6歳に達した学齢の子どもは、次の4月に小学校に入学する年限主義は今も続いている。同じ地区に住む同じ学齢の子ども18~35人を一つの教室に入れ、基本的には一人の教師が、全国一律で決められたその学年に割り振られた教育内容を教える。つまり根本的な部分はこの150年何ら変わっていない。いじめや不登校が社会問題になり、子どもを取り巻く環境は大きく変化してきているのにもかかわらずである。その間に、学校以外の場所ではどんなことが起きていたのだろうか。情報を得る手段から考えてみたい。

 江戸時代から明治初期まで、民衆が得る情報手段は本や新聞だった。本は高価なものであり、一部富裕層などの嗜好品であった。日本における新聞の始まりは、江戸時代に存在した「瓦版」とされている。瓦版は木版を用いて紙に刷られたもので、天変地異や大火、心中などの速報記事が書かれていた。速報記事といっても、それが起きてから木版を彫って刷って張り出すわけだから、最低でも1日2日、いや1週間かかることもあったと思われる。現存する国内最古の新聞は、1872(明治5)年旧暦2月21日、東京・浅草で東京日日(とうきょうにちにち)新聞として誕生した、現在の毎日新聞である。科学技術が進み、パソコンで原盤を作り、各地の工場において高速印刷機械で印刷される現在であっても、情報の即時性で比べると、新聞は、週刊誌や月刊誌といった雑誌よりは高いが、テレビやラジオにはかなわない。それでも娯楽性を求めず、政治や社会から生活にまで及ぶ情報を真摯に伝えるメディアとして支持を得ている。
※「信頼できる」については、新聞61.2%、テレビ53.8%、ラジオ50,9%の順に多い。(令和3年度情報通信白書)

 昭和の時代はどこの家でも新聞を取っていて、朝一番に新聞を読むのは、家長たる父親の特権みたいな雰囲気が感じられた。文字が小さく、漢字が多い新聞は、それだけで子どもを対象にしておらず、子どもたちの楽しみは、4コマ漫画とテレビ番組表くらいのものだった。
日本のラジオの歴史は、1925年(大正14年)3月22日に社団法人東京放送局(現NHK東京放送局)が日本初のラジオ放送を開始したことに始まる。この放送は、東京・芝浦の東京高等工芸学校に設けた仮設スタジオから行われ、第一声は「アー、アー、聞こえますか」だった。当然、高価なラジオを持っていることが前提であり、昭和元年の普及率は3%。玉音放送直前の昭和19年でも50%しかなかった。
日本でテレビ放送がはじまったのは、1953年(昭和28年)2月。 東京のNHKが本放送を開始した。 はじめのうちはテレビの値段が高く、町の中や店先に置かれたテレビを見るしかなかったが、その後またたく間にテレビを持つ家庭が増えていった。
 とはいえ、給料の何ヶ月分もする高価なテレビは、一家に一台という時代がしばらく続いた。茶の間の一番いい場所に置かれたテレビは、家父長たる親父が真正面に座り、母親、子どもたちはそのまわりに座る。当然チャンネル権は親父が握り、子どもたちが見たい番組があるときも親父の許可が必要な時代が続いた。昭和30年代から40年代くらいのことだろう。
情報の即時性という意味では、テレビは新聞を大きく引き離した。また、動く映像を映し出すという意味では、音声のみのラジオをも大きく引き離した。テレビ全盛時代である。それは、現天皇陛下のご結婚であり、東京オリンピックであり、あさま山荘事件であった。一家の大黒柱である親父たちは、戦後のどん底から立ち上がるべく、家に帰る時間が遅くなろうとも汗水垂らして必死に働き、日本経済は未曾有の高度成長を遂げた。そうして親父が外で頑張っているうちに家の中での主導権は母親や子どもに奪われていった。「亭主元気で留守がいい」の時代である。
 同時に情報を得る手段にも変化が出てきた。高度成長は家電品の低価格化をもたらし、一家に一台だったテレビが小さいながらも2台目、3台目を買うことができるようになった。パーソナルテレビの普及である。子どもたちも自分の部屋で好きな番組を見ることができるようになった。親父の機嫌を伺う必要がなくなったのである。それでも、テレビ局が組んだ番組表通りの時間に見るしかなく、人気ドラマの時間になると、銭湯がガラガラになったという逸話も聞かれた。昭和50年代くらいか。
 さらにはVHS vs ベータ戦争を生んだテレビ番組を録画するビデオデッキの普及によって、いよいよ好きな時間にテレビを楽しむことができるようになった。留守録とはよく言ったもので、文字通り留守中でもお気に入りの番組を録画でき、好きな時間に楽しむことができるようになった。さらにレンタルビデオの普及により、映画館に行かずとも、最新作はもとより名作珍作まで、家で楽しむことができるようになった。
 そんなメデイアの王様テレビも令和の今、衰退の一途をたどりそうである。ネットの普及である。若者は新聞を取っていない。大手新聞社の購読率は25.3%であり、世代別にみればその多くは年配世代と言えるだろう。若者はテレビも持っていない。持っていても、それほど見ていない。では何をしているのか。何から情報を得ているのか。スマホである。あのバス停や駅のホームで待っている人の多くのぞき込み、バスや電車に乗車してからも見続けているスマホで情報を得ている。手っ取り早く自分にとって必要な情報だけをどんどん流してくれるTikTokやXなどから情報を得、面白そうな話題があれば検索して深掘りする。評判のテレビ番組があれば、同じくスマホで見返すことも簡単なのである。
 さらに、これまで共通して受け身だった情報を、自ら動画や文章などを発信することすら難しいことではなくなってしまった。新聞やラジオ、テレビが何十年もかけてたどり着いた情報発信という方法を、いつでも誰でも簡単にできるものへと変えてしまった。
 今、目の前にいる子どもたちはそんな時代に生まれ、そんな時代に生きているのである。

 これを学校に当てはめてみると、家長を中心に新聞やラジオ、テレビを崇めていた時代というのは、担任の先生が決められた教科書を決められた時間に一斉に教えることと重なる。授業の中心は教師であり、その後ろには文部科学省がついているという構造だ。さすがに時代においていかれ、制度疲労が限界まで達していると気づいた文部科学省は、授業の主体を子どもにおき、「何を教えるか」を中心に語られてきた学習指導要領を、「何を学ぶか」「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」といった子どもを主語に言い換え、アクティブラーニング、多様性や包摂制のある持続可能な社会の形成者の育成、などの新たな価値観をもって150年続いてきた学校教育を根底から覆そうとした。
 しかし、同じ年齢の子どもに同じ内容を同じ時期に履修させるという根本は何も変わっていない。そこで十分力を発揮できない子にはICTなどを使って多様な学びを保障するなど、小手先の手は打つものの、何を教えるか(まだ学ぶかにはなっていない)の分量は変わっておらず、人と時間と場が断然足りてない。
 
 どうすればよかったのか。パーソナルテレビが普及した時点で、情報の個別化が図られたわけだから、興味や進度に合わせた指導法を考えなければなりなかった。そしてビデオの普及とともに、自分の時間を管理することができるようになったのだから、時間割すら子ども自身で組み立て、その管理を自分で行うようにするべきだったのではないだろうか。そしてネット社会になった今は、情報を受ける立場から発信することもできるようになったことから、学校の役割自体を考え直し、個人が自分の人生設計する上での一つの選択肢として学校が存在するくらいの柔軟性が求められる。

 日本国憲法第4条 (義務教育)では「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。」とある。今、ここでいう普通教育が問われている。普通教育とは、誰が定めるのか。それを強いることによって人権が踏みにじられ、苦しむ子もいるのではないか。義務教育の義務は、保護者がその保護する子女に教育を受けさせる義務があり、国や地方公共団体にそうした教育機関を設置する義務がある。子どもには教育を受ける権利があるだけである。であるならば、保護者や国・地方公共団体は、多様性と包摂制を確保するために、より多くの選択肢とともに時間と空間を用意するべきであろう。当然「九年の」という文言は不要となる。

 想像してほしい。子どもが生まれ、歩き出し、言葉を話すようになったとき、他者や社会との関わりを求めて外に出る。動植物などの自然や車、ビル、電車、お店といった人工物…見るもの聞くものみな物珍しくて足が止まる。中でも一番興味を引くものが現れるだろう。例えばダンゴムシ。毎日ダンゴムシを探し、箱に入れて持ち帰る。その子はダンゴムシについてもっと知りたいと思う。近くの大人に聞くかもしれない。大人は自分の知ってる範囲のことは教えるが、さらに詳しいことは学校に行って教えてもらったり、自分で調べたりしたらいい、とアドバイスする。ここで、この子にとって初めて学校に行く理由が見いだせる。学校に行くといろんな年齢の子どもや先生と呼ばれる大人がいる。ダンゴムシのことを調べる図鑑もある。パソコンもある。同じようにダンゴムシのことを知りたいという子はいなくても、他の昆虫や土、水、太陽、雨…など、関係ありそうなことに興味を持つ子がいたりする。全然違う車や宇宙のことに興味ある子がいても、その子のまとめ方や発表はとても参考になったりする。そんなヒト・コト・モノ・時間があふれている学校という場所は、なんて素敵なところだろう。
「それじゃあ漢字も九九も覚えられない。」と思う方もいるだろう。それこそ、これまでの教育にどっぷり浸かっている証拠である。図鑑や本を読むのに必要であれば漢字は読めるようになる。自筆で手紙を送る場面ができれば、漢字を書くことも覚える。パソコンで文字を打つことも、文章を作る技術も敬語の表現も、全て必要から生まれる学びである。これまでのように、「将来必要になるかも知れないから覚えようね」などということはもいらない。もちろん九年間で学びが終わる必要もない。一生、その時々で好きなことを学び続ければいい。これが子どもを主語にした学校の姿であり、子どもまんなか社会の実現に向かう道だと思う。

 自由進度学習やPBL(探究・プロジェクト型学習)など、これまで積み上げてきた学習方法に新たな視点を加えて大きな成果を上げている学校が見られるようになった。うれしいことである。現在の枠組みの中で、苦労しながらも成果を上げていることに敬意を払いたい。ただし、どの実践でも最後に成果として報告するのは、「全国学力・学習状況調査の結果が上がりました。」である。古い物差しを使っている限り、新しい実践が過去の実践を超えることはない。全国学力・学習状況調査の結果だけで計れば、受動的な一斉授業をしながら成果を上げている学校はいくらでもある。そこで勝負する限り、教育が時代に追いつく姿は見えてこないのである。「新しい授業を受けた子どもたちの10年後、20年後、30年後の追跡調査を行い、幸福度や社会貢献度などを多角的に分析し、その成果を検証します。」くらいは言ってほしい。それくらい苦労して取り組んでいるのだから…。          
              (おーさか充)

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