ふたのついたのみもの
大抵、大学図書館などの自習室には「蓋付きの飲み物」の持ち込みが許可されていますよね。
つまり、蓋がついていない飲み物とか、倒れたら中身があふれ出してしまう飲料の持ち込みは許されていないと言うことです。
しかし、ここには欠陥があります。
蓋付きの飲み物は、蓋を閉めたままにしておかなければいけないという規則は明記されていません。
すなわち、蓋付きの飲み物を持ち込み、蓋を外してボトルの隣にそっと置いておいても、明記されていることに何ら反しないのです。
「は?だめに決まってるだろ。ふたしめろよ」と思うでしょう。
その通りです。
マナーとして、蓋は閉めなくてはならないでしょう。というか、それが許されるならでは蓋付きに限定する意味がなくなってしまうではないか、という話になるでしょう。
で、何が言いたいかっていうと、書かれている裏側には書かれていること以上のたくさんの意味があるということです。
本来、このように書くべきです。
これをキュッとまとめて、「蓋付きの飲み物以外、持ち込みはできません」という短い文言にしているわけです。
長いと誰も見ないですもんね。
で、これはまぁ一例というか。
短い文言とか、言い回しの一言一言には、ほとんどの場合それが内包している「おおきなでっかい深い意味」があるんです。
こういうコンテクストだったら、そりゃあ内包された意味は明らかですよね。でも、これが見えないときが、というか見えにくいときが厄介になるわけです。
ちょっと最近気になったツイッターの話題で、「息子が入ろうとしてる部活の顧問が配っていた部活のルールがやばい。教員ってやっぱり頭が悪い」みたいな話がありました。
まぁ、学校の先生が作ったものを了解を得ず批判目的でネットにさらす時点でどうなんだというのはあるんですが、それは普通に良くないです。
でも私が取り上げたいところはそこじゃなくて。
学校の先生が配った部活の規則的な(規則と言うより志向ですね、ポリシー。)紙には、勢いのある字体で「本気でやること、学業優先すること、毎日参加すること、挑戦し続けること。できるかできないかではなく、やる!」みたいなことが書かれていたワケですね。ちょっと温度感伝わってるか不安だけど、まぁ、「熱血」「厳格」な感じがうかがえるものでした。
それに対してこのツイ主さんは、けっこうな拒否感を感じたみたいで、それをまぁわりと感情のままにツイートしたんですよ。
これが拡散されていったわけですね。
で、賛否両論はいつものことなんだけど、今回は「否」が多めだった。その批判としては、さっき挙げたような「かってに学校の配り物をさらすな」なんだけど、これはもうこのツイート関係なくめちゃめちゃ多くのツイートに当てはまる。
ほかにもいろいろあったけど、主には「教員は部活動をボランティアでやってる。そのことはわかってるのか」とか「部活動は本気で打ち込むためのものだ」とか「これらは、部活動に参加するなら当然だ」とか。
まあ、「部活だけじゃなくて同好会とかサークルとかがあるといいですよね~、エンジョイしたい人のために」みたいな平和的意見もあって、それはそうですねと思う。
問題は、さっきの人たちである。
「教員にとって部活動はボランティアだ。」
「部活動に参加するなら、本気で取り組むべきだ。そうでないなら、入らない自由がある」
「部活動に参加するなら当然の規則だ。部活動とはそういうものだ」
反論がある。
まず、問題はそこではないということだ。このツイ主が、何を思ってツイートしたのか、まったく見えていない。彼女は、書いてある内容に論理的な矛盾を見いだしたわけでもなんでもない。ただ単に、紙を一目見て「不快だ」という感情にいたり、それを指の動くままに、衝動的にツイートした。
つまり、それを反駁しようとしても全くの意味がない。反駁を行う人たちは、私から見れば相手に想像力の及ばない人間にしか見えない。あるいは、意味がないことを脳の奥で理解していたとしても「自分が所属する『スポーツ』というフィールドが馬鹿にされた不快感」でこちらも感情的にツイートを返している状態である。つまり、感情としてむかついたから、「そうじゃないよ」と言いたかっただけの人なのだ。
彼らは、ツイートの文面の後ろに隠れた彼女の行動の意味に気づいていない。アタックしても意味のないところにアタックしている。
特に一番最初の「部活動はボランティア、残業代の出ない残業」というのは、別に部活動のポリシーが厳しいことの理由でもなんでもない。
ただ、言いたいだけではないのか。
そして2,3番目の理由も、先入観マシマシの、彼らの中のルールで会話している。スポーツをたしなむ者として、スポーツをたしなまない者に想像力を広げてみようとは思わないのだろうか。自らの常識を一回捨ててみようとは思わないのだろうか。
「あたりまえじゃん」と思っていたことが非難されたという事態を、自らの常識を見直す契機だとどうして思わないのだろうか。その非難をはねのけることで頭が埋め尽くされてしまうのは、いったいぜんたいどういうことなのだろうか。
よくみてくれ、その非難は、その嫌悪感は、反射的にはねのけるべきものではない。
何かを見直す契機となる「意味」が隠れているのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?