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猫になった、メルセデス。

平日の12時05分に、
メルセデスが信号を左折する。

私はそれをベランダから眺めている。
我が住まいは電信柱の電線と目が合う、
絶妙な高さに位置している。

先日、
木蓮の背丈が高くなりすぎて、
電線に接触する恐れがあるということで、
軒並み彼らは丸坊主にされた。

とても哀れな光景で胸が冷たくなるし、
木蓮並木を来年は見ることが叶わないと思うと、
桜よりも木蓮派の私には辛いものがある。

ともあれ、
私はそう言った場所に住んでいる。

私はだいたい12時ぴったりに、
仕事に無理やりひと段落をつける。

PCを作業用ウインドウから、
Youtubeに移行して適当なBGMを流す。
なるべく歌詞のない幾何学的な音楽が好ましい。

何も押し付けてこない無個性な音楽を
適切なボリュームに調整してから、
全てのウインドウを最小化にする。

すると、
たちまちデスクトップには早朝の入江の壁紙が映る。
まだ陽のかけらすら見えない群青の凪いだ海だ。
とても静かで厳かな気分になる。

だがしかしである。
私の住まいは静寂を良しとしない。
物流の通り道になっているのか、
家の前はいつだって大型トラックが爆音で行き交う。

プリウスはあれほど静音性が高いのに、
トラックというやつはいつだってやかましい。
まるで騒音こそが彼らのアイデンティティでもあるかの
ようにエンジンを力の限り震わせる。

よって、
私はいつだって渋い顔で、
ベランダからそれらの光景を眺める。

そこで冒頭である。

そんな昼時の喧騒の中に、
一台だけ異質な車が左折するのだ。
12時05分のメルセデスだ。

その車のボディは、
よく手入れをされているのが一目でわかる。

体表は昆虫よりも磨かれた甲殻で覆われていて、
周囲の景色を余すことなく吸い込んでいた。
きっと星空の下を走ったならば、
どこからが宇宙の境目かすら曖昧になりそうだ。

我が住まいのベランダからは運転手しか見えない。
彼は絵に描いたような紳士然としており、
紳士御用達と思われる白い手袋までしていた。

寸分違わない洗練された動きで、
ハンドルをゆっくりと左に切る。

静けさそのものが左折しているように錯覚する。

私はその動きに見惚れもするし、
彼の乗せている主人に思いを馳せたりもする。

二十七歳の頃に仕事の関係で、
一度だけそのような車に乗ったことがある。

持ち主は芸能人だった。
名前は明かせない。

ただ、男性で大御所で、
喧嘩自慢だったことくらいは良いだろう。

その日、
私は彼と彼の家族(なぜか家族を連れてきた)をエスコートしつつ、
彼の主役映画の宣伝に街中のテレビ局やラジオ局に足を運んだ。
その日は分刻みのスケジュールで非常にタイトだった。

彼はロケバスに乗ることを嫌がり、
運転手付きの自家用車で移動することを好んだ。
その時の車もメルセデスだった。

私は任務を的確にこなした。
彼らの誰かがフラペチーノが飲みたいと言えば、
スタバまでダッシュしたし、
たこ焼きが食べたいと言われたら、
関西屈指の名店まで足を伸ばした。

その日をご機嫌に過ごしてもらうのが私の役目だった。

長い日中もなんとか二十一時を回ったころ、
最後の出演場所であるラジオ局の地下駐車場にたどり着いた。

その時、
彼が一つ前に生出演していたテレビ局の控え室に、
忘れ物をしたと言い出した。
どういう経緯かは覚えていないけれども、
とにかく私が取りに行くことになった。

「タクでサクッと行ってきますよ」

僕がそう言うと、彼はこう返した。

「この車を使ったらいい」

私が恐れ多いというと、
彼はせっかくの機会なんだから、
と譲らなかった。

なぜ彼は自家用車を私に貸すのか?

それは私がその日一日をかけて、
彼にたっぷりと気に入られたからである。

というのも私は相槌に関しては、
誰にも負けないという哀しい特技があった。
相手に興味がなくても大変興味がある風を装える。

その日は、
あらゆる隙間時間に彼の趣味や、
中高時代の喧嘩歴戦を聞きまくった。
その結果のご褒美というわけだ。

タイミング良く、
メルセデスの運転手と目が合い、
彼が友好的な笑みを私に向けた。

私が運転するわけでもあるまいし、
お言葉に甘えることにして現場を後にした。

車内には微かにベルガモットのような、
落ち着いた香気が満ちていた。

車内アクセサリは無駄に豪華で、
高級ホテルの化粧台を思わせる細々としたものが置いてあった。
クリスタルの灰皿や銀色のケースに入ったシガレット、
便箋とガラスペンまで置いてあった。

一体どんな人間がどんな理由で
メルセデスで手紙を書くというのだろうか。

足元のマットは出来立ての毛布を敷いているように柔らかく、
シートもきっと特別性だろう。雲の上に座っているようだった。

車は氷上を音もなく滑るように走り出し、
気密性が高いのか外部の騒音が沁み込んで来ることはなかった。

それに気づい頃には、
僕はすっかりこの車に飼われているような気分になっていた。

でも惨めな感じではない。どちらかといえば、
古代王宮の食客のように重宝にされている猫にでもなったような、
不思議な心地だった。試しにゴロニャアと言いたくなった。

その時何かがあったわけということではない。
彼の忘れ物をメルセデスで取りに行っただけの話だ。

ただとても印象に残ったことがある。
それは私がテレビ局から忘れ物を回収して、
駐車場に戻った時のことだった。

がらんとした夜の地下駐車場で、
運転手が柔らかそうなクロスで車体を丁寧に磨いていた。
まるで愛玩動物でも愛でるように。

妙なことを言うようだけれども、
そのメルセデスもどこか喉を鳴らすような、
心地良さそうな親愛の意を醸し出しているように見えた。

私はそんな場面にでくわし、やや怯んで、
しばらくそんな光景を眺めていた。

運転手はやがて私の視線に気づき、
少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
私は会釈をして再度車に乗り込んだ。

そして帰り道にほんの少しだけ話をした。

「大事にされてるんですね」

僕はそう声をかけた。

「そうですね、私の仕事ですから」

と彼は淡々とした口調で言った。

ただ言葉ほど声色は冷淡ではなかった。
彼とメルセデスの親愛関係は誰に明かすものでもあるまい、
といった完全に独立した蜜月めいたものを感じた。

私の好意的な解釈にはなってしまうが、
車が利便性だけを考えた産業機械であれば、
こんなに愛されなかったのではないかと思う。

芸能人の彼がロケバスに乗りたくない理由も、
改めて理解できたきっかけでもあった。

しかしながら、
果たして主人はなぜメルセデス乗り心地が良いか、
その秘密を知っているであろうか。

12時05分。

本日も私の住まいのベランダから、
メルセデスが左折して街へ消えていった。

ただの産業機械ではない。

愛情をたっぷり注がれ、
それを受けて特別になった
ゴキゲンなメルセデスだ。

きっと彼らが二人っきりの時、
メルセデスはゴロニャアと鳴くのかもしれない。

そのように稀有な瞬間が毎日降り注ぐのであれば、
まだこの住居に住まう理由にもなりそうだと思う。

たとえもう二度と、
木蓮並木を見られないとしても。




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