定点観測(19)
2020/09/12
ここ数週間みっちりしていた。
オンライン開催になったJJFと、その次の週のオンラインイベントの準備中。インタビューしたり、話すネタを決めたりしている。
日銭稼ぎの仕事もなんだかいっぱいある。文字起こし、先月、今月合わせて30時間分ぐらいやった。(30時間分のオーディオ、である)これは、少し達成感がある。ようやった。
同時並行で別のちょっと大きいインタビュー3件の準備を進めている。
合間をぬって小型二輪の教習に通っている。
翻訳は、まぁいつも通りの量。でも普段よりも意識して、英語を勉強するつもりでやっている。そちらの方が面白いからである。
「これは仕事だ」と態度を変えて仕事をつまらなくしてしまうことは、捉えようによっては怠慢である。見せかけの効率を求める時、それは実は怠慢であることと引き換えに、退屈を強いられているのである。
今日は生活綴方にも行った。時々、からだと心の調子を合わせるために、自分の生活とは別にチューンナップされた空間にいくことが必要だ。ここはそういう場所だ。
僕はね、最近こころの栄養について考えている。身体が物質としての栄養を必要不可欠とするように、こころも、新鮮なものを絶対に必要としている。これは、比喩じゃないし、ロマンティシズムでもない。現実として、与えないと枯れてしまう。心と身体には、毎日、新しさを摂取させることが必要だ。
これは必ずしも、新しいところに行ったり、新しいことを始めるということじゃない。いつものことの中に、自分なりの新しい発見をしてそれを表現する、ということだ。つまりこうして日記を書くことでもいい。これをやったらワクワクするんだよな、と、やろうと思っていたことを、本当に、勇気を持って、飛び込んで、きちんと黙ってやる、ということでもある。これが栄養分として求められている。人と会って話すというのも、そのひとつの例。
これは「遊ぶ」と換言することもできて、つまり、遊んでいない人というのは、不摂生なのである。「全然遊んでない」という状況はある。それは、「全然寝てない」、「全然食事をしてない」のと同じで、生命維持における解決すべき問題であると思う。心を本気で遊ばせるっていうのはオプションじゃないんだ。やらなくてはいけないことだ。(別に仕事をほどほどにしろってんではもちろんなくて、仕事が楽しくてしょうがない、という人だって、しっかり遊んでいる人である)
明日から千葉県の御宿に行く。ジャグリングを久しぶりに披露すると同時に、ワークショップもしようということになっている。
そこで、今日はボールをたくさん作った。ふじくんを呼んだ。彼はとにかく細かい作業をやらせるとうまいのですぐに作り終わった。感謝。
まぁ忙しさ自慢とか大変さ自慢とかしたくなっちゃうもんだけど(してるけど)そういう時って、今やるべきことがあるのに、それをやれていない焦りを、なんとか、「自分は何かを達成しつつあるのだ」という満足感に変えたいだけである。
本当は、やれば終わる。やらねば終わらぬ。それだけ。
2年間ぐらい波がありつつも脈々と流れていたことが止んだ。
食事が喉を通らないってのは、あれはなんだい、って思ってたけど、そういうこともあるんだな、と体験した。そうめんも通らない時がある。そうめんですよ。うーむ。
でも、今はおおいに元気である。こういうことというのは、心に積み重なっていくことであって、決して、悪いことではないのである。
これからどんな新しいことをしようか、ワクワクもしている。なんか、生活を一変したいなと思っているのだ。