サーロー節子

 2017年8月にテレビで観たサーローに感動して、記録としてコレを書いた。

 1845年 後のサーロー、中村節子 13歳 8月6日 女学生 
広島、爆心地から1,8キロ地点、動員されていた軍の施設で被爆する。
 彼女は瓦礫(がれき)の下敷きになるも助け出され、目が飛び出して手で受ける人、身体中の皮膚がぶら下がった人の間を、死体をまたいで逃げた。サーローは、7人兄妹の末っ子として生まれた。

 戦前はアメリカと関わる仕事をしていた父親の影響で西洋文化に親しんで育った。
 赤い丸顔でアップルちゃんと呼ばれ不自由なく明るく育った彼女は、13歳の夏、原爆という地獄を見た、地獄の中に居た。
 戻った実家では、大好きだった姉と甥っ子が黒く膨れた肉の塊となって死んでいった。

 1954年(あー、私が生まれた年か)サーロー 22歳 人の役に立ちたいとアメリカに留学し社会福祉学を学ぶ。
 その年の3月1日、アメリカはビキニ環礁(かんしょう)で水爆実験を行った。
 サーローがアメリカに着いた直後、新聞社に被爆者としてのコメントを求められた。
 サーローは思わず「とんでもないことが起きている。広島長崎だけでもこりごりだ。あれだけでもよくないのに、アメリカはいまだにテスト(核実験)を続けている」と言った。
 それに対して、翌日から抗議の電話が殺到した。
「もう日本へ帰れ」「真珠湾を始めたのはお前達じゃないか」と、
 サーローは、自分は今敵国に来ているのだと実感し孤独と不安、居場所がない、自分が居る場所ではない。と、どう生きていけばいいのか分からなくなった。
「口にジッパーをして何も語らなければいいのかと」と考え悩んだというが、
 しかし、彼女は英語で被爆体験を語り始める。

 サーローが被爆体験の話をした後に、様々な意見、質問がある。

「日本人だけでなくアジアの人達も沢山亡くなっている。
何百万人もの韓国人や中国人が殺された。
原爆で亡くなったのは10万人程です。
そのことを考えなければならない」と言う人(白人)

 それを聞いたサーローは、同じ歴史であっても、その歴史を見る人の背景によって見方が違うんだと分かったという、一人の体験だけを話して、ああして逃げた、こうして逃げた、苦しかった、悲しかっただけで終わってしまうのだったら、それは不十分だと思った。という。
 そして、原爆を日本の悲劇として語るのではなく、一人ひとりの命を奪った悲劇として語る。人や国を超えて“心に響く言葉を”探し始める。

 必死の形相でサーローに真剣に質問した中国人の女学生が居た。 「日本によって殺されたのは誰ですか?
ほとんどが罪のないアジアの人達です、あなたの受けた被害も同じだと考えますか?
どちらの被害が、より深刻だと考えますか?」と、
 サーローは真っ直ぐな眼でその質問に答える

「命を失うことに違いなどありません。殺される命に変わりはないのです。
 中国も日本も朝鮮半島の人にも、広島と長崎について語る時に、私が大切だと思うことは、日本は、被害者であり加害者でもあるという意識です。
どちらが悪いという問題ではありません。
殺戮(さつりく)そのものが、悪なのです」
立場を超えて、命の大切さを分かち合うことをサーローは願い語る。 立場を超えて考えることを、感じることを。

 2017年3月 サーローはイギリスLBC放送に出た。
「サーローさん、なぜ英国の核兵器禁止条約参加が必要だと思いますか?」という問いに
サーローは
「英国が核を持つ9カ国の一つだからです。
核保有国の参加は、非常に重要です。
なぜなら、核廃絶の試みは保有国(核を持ってる国)と非保有国(核を持たない国)の共同(いっしょ)の責任だからです。
全ての国が責任を負う必要があるのです」
と答えた。

 2017年 3月27日 ニューヨーク 1回目の国連交渉会議が行われる初日の会議直前だった。

 アメリカと核保有国、それに核の傘下に守られている(と勘違いしている)20カ国が会見を開いた。
 そして、「核兵器は安全上必要であるので、会議には参加しない」と宣言する。

それを聞いたサーローは、「彼ら(核兵器廃絶を訴える人達)は現実を見るべきで、今日条約を作ろうとしている彼らは安全保障上のリスクを理解していない」と言った。
 唯一の被爆国である日本の政府が、
「残念ながら、今の状況では建設的で、誠実なかたちで会議に参加することは、日本として困難だと言わざるを得ない」と不参加。
 それを聞いたサーロー「本当に、驚きですね」と一言落胆の声を上げた。

 交渉会議でサーローに、4分間のスピーチの時間が与えられた。
テーブルの上には、折りヅルとウィシュユアウエァヒア(あなたにここにいてほしい)と書かれたメッセージが置かれていた。
「この歴史的な機会に、広島の生存者としてお話しする機会を与えていただき光栄に思います。
一発の原子爆弾によって愛する故郷が完全に破壊されてから72年になります。
広島のことを思い出す時、最初に脳裏に浮かぶのは、まだ4歳だった甥(おい)の姿です。
甥は誰かも分からないような真っ黒で膨れ上がった溶けた肉の塊(かたまり)と化し、死の間際まで消え入りそうな声で“水が欲しい”と言い続けていました。
私には、この甥の姿が核の脅威(きょうい)にさらされている世界中の子供達の姿に重なるのです。
核兵器禁止の恩恵を受けるであろう未来の世代だけではなく、亡くなった広島と長崎の人々の魂も感じてほしいと思います。
どうか、最善を尽くして下さい。私たち被爆者は信じています。
この条約は、世界を変えられると」
核保有国、その傘下国、日本が参加しない中、1回目の交渉会議が終了。

NPТ(核拡散防止条約)というのがある。
そこに参加しているのは、核保有国、そしてその持っている核の数
ロシア  7,000
アメリカ 6,800
フランス   300
中国     270
イギリス   215
そして、新たに、イスラエル、パキスタン、インド、北朝鮮が持ち始めた。
 日本はそれに賛成している。

2017年6月 カナダの首都オタワ 2回目の交渉会議
 アメリカの傘に守られてきたカナダも1回目から会議に参加せず。
しかし、そこで語られたサーローの言葉に対して
「数字や統計を語る中、サーローは彼女にしか出来ない話をしている。
“これは人間の問題だ”と私達に気付かせてくれる。
私は、彼女の勇気を思わずにはいられない。
いったい何度この話をしているのか。
そして、話をするたびに心の痛みを感じているのではないか。
彼女が、それだけ勇敢ならば、私達もそうあらねば、と思うのです」という賛辞の声があった。

 その日、国連の安保理で緊急会合が開かれる。
「北朝鮮の弾道ミサイル実験について、非難する必要がある。
多くの国が強い懸念を示している」として。

 7月3日 あと5日で会議終了の日、ニューヨークへサーローが向かった。
核保有国も、日本もカナダも不参加だった。


7月7日 雨 最終日  
最終の条約案 
その前文には、「被爆者の受け入れがたい苦しみと被害に思いをはせる」とあり
更には、核保有国が条約に参加する為の道筋も書きこまれた。

投票 参加した殆どの国 122の国が賛成した。

 サーローに最後の一言が求められる。
「私は、この70年待ち続けていました。
そして、ついに、この日を迎えることが出来、喜びで胸がいっぱいです。
これは、核兵器の終わりの始まりです。
私たちは、未来を危険にさらしません。
世界中の指導者のみなさんに心からのお願いがあります。
あなたが、この地球を愛しているなら、この条約に署名して下さい。
核兵器は、これまで道徳に反するものでした。
そして、今や法律にも反するのです。
一緒に前に進み、世界を変えましょう」

条約の採択を受け核保有国のアメリカ、イギリス、フランスは共同声明を発表した。
「条約は、安全保障の現実を無視している」と。


 今、サーローはカナダトロントに住んで半世紀になる。
7月下旬、
サーローはカナダの新聞に核兵器廃絶、核兵器禁止条約への理解を求める意見を投稿した。
「動き続けているんですね」の言葉に
「当然!  当然!」と彼女は答えた。

カナダの平和公園に、8月6日、広島から来た、広島の火が灯る。
その横の石には、PEACEの文字が刻まれている。

明日、世界が終わるとしても
今日、私はリンゴの木を植える.



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