フロイトとクービンを見ていて気付いたこと/表現主義と多産と死について
今日は自分のなかで好きな流れでツイートできたのでnoteにまとめておきます。Twitterのモーメント機能ってなくなったんですね。
きちんとした美術書をふまえた話ではなくあくまで僕が感じたことなので、そのへんはご了承ください。
まず手始めに、この短い動画を観てもらうといいかも知れない。クービンの作品のスライドショーだが、音楽もなんだか雰囲気にそぐっており、思わず引き込まれる。
そうやって考えると、このあたりの作品は母への愛と父への憎しみ、早すぎる母の死、といった象徴にぜんぶ見えてくる。
後から気付いたのだが、これもクービンの作品で、してみればこの獣もやっぱり父親の象徴なのかも知れない。
母の死の一年後に、父は亡母の妹と再婚。だが彼女も間もなく病死して、父は三人目の妻を迎える。同じ頃にクービンは学業不振で退学になり、激昂した父親から体罰を受けている。
クービンは19歳で三番目の継母の弟に預けられるが、ここでも冷たい仕打ちを受け、生みの母の墓前でピストル自殺未遂を起こす。
さらに第一次世界大戦によって親友フランツ・マルクを失う。第一次世界大戦が、多くの人に家族や親友との死別という苦しみを与えたことは周知の通りであり、コナン・ドイルが死者との交流を希求し、心霊主義運動をに身を投じる原因となったことでも知られている。以下のブログは、読んでいただければわかるけれど、ちょっとそれに関連している。
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そんな彼だったが、幼少期には庭の小動物や虫を捕まえ、残酷に拷問するという趣味を持っていたらしい。異端の芸術家としてはそれでいいのかも知れない。人間としてはどうかと思うが。
又、彼の創作には精神疾患による幻覚が深く関わっていた、という説もある。なおここでいうレムケとは『狂気の絵画 美術作品にみる精神病理』で知られるルドルフ・レムケであろう(手元にはないので一応注文しておいたが、岩井の引用で事は足りている)。
死に彩られた時代。おそらく葬式に次ぐ葬式であっただろう。このことは、先に述べたようにフロイト『ヒステリー研究』の基調低音ともなっている。そこで僕はふと思い当たったのだった。あの動物たちの意味について。
そういえば、上で貼ったこの絵にしてもそうだ。
先頭をゆく女は妊娠しているようだ。種を蒔くような仕草は命を生み出さんとしている儀礼に見える。だがこの時代において生まれることは、依然としてかなりの確率で早逝することでもある。
命の儚さは、そのまま現実感の希薄さとも繋がるのかも知れない。晩年の彼は次のように述べているという。
まったく不憫(クビン)な男である。なんつってな。
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以下おまけ。
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