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代わりのいる私と代わりのない愛

 ☆☆☆noteは連ツイ感覚で!(おまじない)☆☆☆

 あるところに一卵性の三つ子の姉妹がいた。彼女たちは裕福な家庭に生まれ、家も庭もステキだったし洋服も靴も、とにかく物質的な不自由は何もなかった。ただ彼女のなかの一人――おそらくは他の二人も同じように思っていたが――は、幼い頃からどこか〝居心地の悪さ〟のようなものを感じていた。
 というのも、周囲が誰も自分たちを見分けてくれないからであった。
 まあ周囲にしても、ちょっと無理だったかも知れない。筆者も小中学校の同級生に一卵性双生児の姉妹がいたが、正直廊下ですれ違ってもどっちがどっちだかわからなかった。

※画像はイメージです。Wikimedia Commonsより

 さて三姉妹はティーンエイジャーになり、彼女たちの一人にボーイフレンドが出来た。ところが初デートの後、その「妹」はきわめて不安定になってしまった。どうやらボーイフレンドの愛がいまにも醒め、他の子に取られてしまうのじゃないか、次のデートでなにか失敗するのじゃないか、という恐怖に駆られているのだった。
 そこで「姉」、さっきちょっと出てきた、周囲が見分けてくれなくてモヤモヤしていた彼女は「もし本当に次のデートに行けないのなら、代わりに行ってあげる。たぶん気付かれないんじゃないかな」と提案した。本当は、姉も妹も、いいかげん周囲に誰が誰だか見分けてほしかったけれど。
 また姉は妹に、前のデートでどこまで行っているのかということも尋ねた。もちろん地理的な意味ではなく。
 ともあれデートはとくに破綻なく終わり、姉は帰宅して、今度こそ大、大、大ショックを受けたのだった。まさか本当に気付かれないとは! いくら外見が瓜二つだからといって、彼女やぞ? と。

山本マサユキ『100万円で家を建てる』。そういうコマではないらしいです

 そうして「姉」は思った。他でもない自分を認識され、代わりのいない存在として愛されなければ、どんなに裕福でもひたすら虚しいばかりだと。この出来事が、のちの彼女の人生および思想の原点となったのだった。

 *

 これは実際にあった話で、ちょっと筆者(安田)の言葉で書いた部分もあるが、設定や筋はまったく変えていない。
 この「姉」というのが本来の語り手で、誰もが知っている著名人である。
 そう、彼女の名前はエリザベス・キューブラー=ロス。精神科医で、「死の受容のプロセス」によって世界的に知られている。
 
 キューブラー=ロスの「死の受容のプロセス」については以前ブログで紹介したことがある。そこでは死の受容の五段階(否認、怒り、取り引き、抑鬱、受容)のうちとくに「取り引き」(バーニング)について興味を惹かれ、若干の考察を加えているのでよかったら参照してください。

 さて上の三姉妹のエピソードは、1985年4月に京都で開催された「第9回トランスパーソナル国際会議」に招聘され、来日したキューブラー=ロスが語ったもので、「死:成長のメッセージ」という講演タイトルがついている。
 講演全体からいうとマクラの部分で、ここから愛と死生観をめぐる、熱の込もった感動的な話が場を圧倒したという。

若き日のキューブラー=ロス。Seçim Sonrası Dev Hizmet: Kübler-Ross Modeli ile Hayata Tutunma Rehberiより

 ……ただ正直言うと、講演全体は僕にとっては微妙なところがあった。
 たとえば彼女はこんなエピソードも語っている。空港で突然声をかけられ、子供との立て続けの死別に直面している母親に救いを求められたが時間がない。どうしてもこの人のために一時間欲しい、と切実に思った瞬間にアナウンスがあり、飛行機が一時間遅刻することになったというような。
 感情を抜きにして言うならば、飛行機の遅刻とあなたの思念はおそらくは無関係やで(´・ω・`) とどうしても指摘せざるを得ない(そんな野暮なことは黙っておけばいいのにって? 唯物論者だって世界観に命賭けてるんだよ!!!!!)。
 他にも、交通事故で死んだ人の魂が上空数メートルに浮かんで、依然として車に閉じ込められた自分の死体やら走り去る車やらを見ている、そして車から自分の死体を運び出すために発煙筒が何本使われたかとか、さらには走り去った運転手の心まで伝わってくるといった、到底シラフではついて行けない話もしており、これ意外と知られてないんですけどキューブラー=ロスってかなりスピってる人なんですね。

 愛が人生において最重要だというような主張についても、やはり今日は多様な生き方があり、男にしろ女にしろ生涯シングルでもかまわないし、なんなら友達が誰一人いなくとも本人さえ困っていなければ別に問題はない、というのがリベラルで物わかりのいい見解である。
 実際、精神科医のジェフリー・ウィンバーグは、一日のコミュニケーションのハイライトが郵便配達員との二言三言の挨拶ていどで自分は一向にかまわないといった趣旨のことを書いている。
 したがって、キューブラー=ロスのカリスマたる由縁は充分に講演から伝わってくるものの、こういう結論についてもなかなか首肯するわけにはいかないのである。

 *

 ただ、一卵性の三姉妹がそうであるゆえに幼少期から自分の「固有性の問題」を意識せざるを得なかった、という話の骨子には、やはり惹かれるものがある。そこを考えてみたい。やっと本題に入った。

 まず、デート相手の男がキューブラー=ロスとその妹の見分けがつかなかったことについては、特別なバカだとか女性を道具としてしか見てないから云々みたいな話ではなく、そこらの平凡な十代男性ならば充分に有り得るのではないかと思う。
 というのも「じゃあ実際にどこで見分けるのか?」となると、外見が同じで、喋り方やしぐさもそこまで違わない――環境が同じならハビトゥスも近接するであろう――となると、これはなかなか難しい。
 ここで「きちんとコミュニケートしてればすぐおかしいと気付くじゃないか」と思うのはインテリの自己投影にすぎない。現実を見ろ。
 十代の通常のカップルは、そういうふうにステートフル(履歴参照的)な会話をしていないである。ステートフルな会話、ステートレスな会話については下記ブログを見ていただきたいが、とにかく数回デートしただけでおかしいな、こないだ話したことと食い違ってるな、となるような会話を元から彼らはしないし、多少食い違っててもまさか別人が入れ替わってるとは想定していないので、記憶違いだったかな、とか気分や考え方が変わったのかな、程度で流れてゆくのである。

 これはボーイフレンドに限らず、先生やクラスメートにしても同じことだっただろう。彼女たちの固有性に対する悩みは、本質的に周囲の鈍感さの問題ではない。むしろここで問題にされているのはすべての個人の固有性なのであり、三姉妹のエピソードは、私たちすべてにのし掛かる固有性の覚束なさを象徴的に示したものだ、と捉えるべきだろう。

 ちなみに個体識別されれば固有性を認められたことになるわけではない。宮台真司はナンパ師時代の経験をふりかえって、女の子の言うことがみな同じでどうしても会話が画一的になる、しかも相手のこれまでの人生やら深い思いやらを掘れば掘るほどそうした深い次元においてさえ画一的であることに気付いて鬱になった、みたいなことを書いている。
 つまりキューブラー=ロスのエピソードが興味を惹く(僕は惹かれましたが)のは、私たちに対してこう問いかけてくるからである。「あなたのかけがえのなさはどこにあるのか? そもそもあるのか、ないのか?」

 そして、これに対するキューブラー=ロスの答えが「愛」になる。ここは彼女の言葉を直接見てみよう。

 死ぬ瞬間にあなたの心に浮かび上がってくるものは、たった二つしかありません。その一つが、人生で起きた波風です。もう一つは喜びの瞬間、あなたが満たされた瞬間です。満たされた瞬間は、ほとんどの人の場合、あまりにも少なすぎます。「いい成績をとれば愛してあげる」とか、「いい学校に入れば愛してあげる」とか、「高校を卒業できたら誇りに思うよ」とか「『息子は医者』っていえたらどんなに鼻が高いだろう」などといわなかった人、無条件に愛してくれた人と心がつながった時の記憶、それが満たされた瞬間です。この「何々すれば」という言葉は、原爆以上に多くの生命を消し去ってきました。ゆっくりじわじわと死んでいくプロセスです。「愛しているよ、何々すれば」という条件つきの愛で育った人は、死ぬまで愛を買おうとするからです。でも愛を手に入れることは絶対にできません。どんな形であれ、愛は買うことなどできないのですから。

『宇宙意識への接近』所収、「死:成長の最終ステージ」p.146-147、以下太字は安田による。

 私たちの社会でもっとも大きな問題になっているのが愛です。愛がもはや無条件の愛ではなくなっているからです。罪悪感や条件つきの愛に凝り固まっている人は、「だめです!」といってしまえる勇気ある愛を知りません。

同書、p.149

 こうしたキューブラー=ロスの「愛」をめぐる発言は、固有性をめぐる問いへのアンサーとして読み解かれるべきだろう。
 つまり、条件付きの愛というのは、あなたのルックスだとか肩書きだとか経済力だとか何らかの生活上の貢献だとか、そうした属性、タグに対する愛にすぎず、代替可能なものである――この「マッチングアプリ的愛」とでも呼びたくなるような現代社会における愛の惨状は、私見ではグローバル資本主義下における貨幣経済の生活全域への浸透の結果に他ならないが、話が大きくなりすぎるので今回はそこについては掘らない――キューブラー=ロスの立場から言えば、「あなただから」愛し、「あなただから」愛される関係でなければほんとうの愛とは言えないということなのだろう。言い換えれば、あなたの固有性がまさに愛の原因となるような愛でなければならない、と彼女は主張しているのである。

 (なお涼宮ハルヒのいう「私なんてあの球場にいた人ごみの中のたった一人でしかない問題」については、下記ブログで少し言及しています)


『涼宮ハルヒの憂鬱』第13話「涼宮ハルヒの憂鬱 V」


 *

 依然として「一人で生きることの何が悪いの?」という疑問は残る。
 だが、これはキューブラー=ロスが見つけた、彼女と、彼女の助言を必要としている(多くの)人たちのための答えである。
 さしあたってはその部分の是非よりも、次の部分に注目すべきだろう。つまり、損得人間になるな、条件つきで愛し条件つきで愛されること、所詮はそういう愛モドキしかこの世にはない、と嘯くようなタイプにはなるな。なぜならその世界観に飲み込まれることは、自ら己を、なんぼでも代わりのきく人間にしてしまっているからだ。

いま呼んだ? ねえ呼んだよね?

 おそらくそこがカギだ。
 誰かと生きるとか一人で生きるとか、友達が多いとか少ないとか、彼女がいるとかいないとか、それはどっちでもよくて、人と人の関係、情、絆、縁、愛――呼び方は色々あるけれど、そういう領域においては、どこかで損得から抜け出さないといけない。全員に対してじゃなくてもいい、24時間365日じゃなくてもいいけれど、そういう部分をまったく持ってないという人は、おそらく誰にも愛されない。
 それが固有性(の覚束なさ)からくる苦しみを抜け出す、今のところほとんど唯一の方法なのではないか、そのようなことをキューブラ=ロスは提起しているのである。霊的次元の働きによる飛行機の遅れや、死後に現場を浮遊する魂といった話は、ひとまず忘れてあげよう。

 うーむ、全然連ツイ感覚になってないぞ、むしろ長くて重くなってるぞ。そんなわけでそろそろ終わりますよ。おや、中州でキャンプしたらいけないったら。




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安田鋲太郎
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