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ヴードゥーの死の宣告について

 noteは気楽な書き散らしです。念のため。

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 ウォルター・B・キャノンの『ヴデュー死』は、オーストラリア、ポリネシア、南アメリカ、アフリカでしばしば見られる呪術的な死の宣告が、ほんとうに死をもたらすのか、どのようなメカニズムで死をもたらすのかについて考察した論文で、たいへん興味深く、またさまざまに思うところがあったので今回はそれについて書きます。

 そもそも「ヴデュー死」とは何か。
 ブードゥー教やそれに類する原始的な信仰世界においては、妖術師・呪術師が、共同体のタブーを破った、霊的な罪を犯した者などに対して死を宣告することがある。多くの場合は「骨指示」(bone-pointing)という、骨でつくられた杖で指すというジェスチャーを伴う。
 そして死を宣告された者は、「オレはもうダメだ」と確信し、絶望して寝込んでしまい、飲食も拒み、実際に短期間のうちに死んでしまうのである。

骨指示に使われる骨。Australian Aboriginal artifacts 6 – Pointing (killing) bone

 これは医者や民族学者による報告が数多くあり、実際に何度も起こることであり、キャノン自身も何度か目にしたことがあるという。
 当該論文では、まず最初に毒殺の可能性を否定する。現地で採集できる物質、また現地人の知識水準といったことを鑑みるといずれのケースも毒殺である可能性は低いという。
 彼らはそのような外的な理由によって死ぬのではあきらかにない。かといって、むろん超自然的な力で死ぬといった趣旨の論文でもない。

 では毒でもなく呪いでもないとしたらどうして死に至るのか。要約するならば、死を確信した者の激しい恐怖が、大量のアドレナリン・糖の分泌や血管の収縮などの身体反応によって心臓や血管にダメージを与え、また食事や水を拒否することによって血液不足や脱水症状を起こし、衰弱死に至るという。

 そもそも何故こうした身体反応が起こるのか、これについてはキャノンは「闘争-逃走反応」と名付けているそうだ。下園壮太『人はどうして死にたがるのか』もこの話をベースにしたと思われるが、ひじょうにわかりやすかったのでそちらを参照させてもらうと、血管を収縮させたり血液をドロドロにする(キャノンのいう「糖の分泌」はそのためであろう)のは出血の場合に備えるためであり、手が汗ばむのは物を掴んだときに滑らないようにするためである。またパニックになるのは「考えるよりなんでもいいからすぐ動け」という、これまた緊急事態に生存率を高めるための命令であり、食欲や水を飲む気がなくなるのも、猛獣だの巨大な岩が転がってきただの、そういう時に空腹に襲われたり激しい便意・尿意をもよおすことは命にかかわるからである。

闘争-逃走反応を起こしている犬と猫

 
 つまり死の宣告にたいする恐怖とは一義的には動物に広く見られる「闘争-逃走反応」であり、それは戦うのにも逃げるのにも適したモードなのだが、あくまで緊急時の一時的な運用を想定しており、長く続くことは健康を害するというわけである。
 そのような高負荷モードが、呪術的な死に対する強い確信から、実際に死に至るまで続いてしまうというのが「ヴドゥー死」の正体である。これがキャノンの出した結論であった。
 なお、現代ではより多くの衰弱死に至る身体的プロセスがわかっているが、それらはキャノンの説を否定するというよりも、当時の医学的限界から見えなかったことを補強するものであると思われる。

 しかし、以上の話は現代人にはにわかに納得し難いものがあるのではないだろうか。
 なるほど身体的機序はわかった。けれども「そこまで信じ切ってしまうものなのか」とか「誰かが呪いを解いてやったり、大丈夫だと言い聞かせたり、無理矢理飲み食いさせたりしないのか」といったような。ところがそうはいかないのである。
 個人的には、身体的機序よりもむしろこうした集団心理的な領域のほうをより印象深く読んだ。たとえばある報告では、病院にやって来た男が「自分は数日のうちに死ぬであろう」と確信していたので、観察者は部族の監督を呼んで男を安心させてくれるように依頼した。だがやってきた監督はベッドに横たわる男の顔を覗き込むや否や「そうです、ドクター、彼に近づいてみて下さい。彼は死にます」と言ったそうだ。
 そうして翌朝、じっさいに彼は死んでしまったのだが、医学的にはその死に対して説明がつかず、まさに「彼は生きるのをやめてしまった」という態だったという。

Voodoo SorcererというDCのキャラクターらしい

 監督はこの男を憎んはいないし、ましてや死を望んでもいなかったはずだ。だが、彼らの世界ではその死は絶対的確定であり、誰も疑義を差し挟むことなど思いも寄らなかったのである。
 これは、死を宣告された者の親しい身内ですら同じである。家族は彼をよそよそしく、半死人のように扱い、彼は自然に共同体のなかで居場所を失うというのだから、なおさら現代人には奇異に映る。
 家族としての愛はもちろんあっただろう。すなわちこれは彼を愛しているとか憎んでいるとか、彼の死を望んでいるとかいないといった次元の話ではないのである。

 〝彼は、定めによって、死ぬ〟

 これが彼らの生きる世界なのだ。
 だが、これは我々の現代社会とどれほど違っているだろうか?

 ここまで直接的ではないにしても、我々の社会とて「皆の信じていることは真実である」という、非宗教化されたさまざまな社会的通念に取り巻かれているのではないだろうか? ここでジジェクの有名なパンチラインである「成功したイデオロギーはもはやイデオロギーとは見做されず、空気のように社会の前提として受け容れられる」(大意)を想起してもよいだろう。

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 ……いやーしかし、具体的に現代社会のどういう事象がそれに該当するかというと、正直、ぱっと典型的なものを挙げることが出来ない。

 論文の解説では、「この論文は、原始社会における邪術、恐怖死を扱っているけれども、その意味合いはもっと深いものがある」とし、現代人の心因性の病気、暗示による恐怖によって心気症や潰瘍が起こるといったことを挙げている。なるほど、それは正統的な応用だろう。

 けれど、なんとなく、もうちょっと幅の広い何か、この世界の透明な天蓋とでも申しましょうか、不可視のイデオロギー、あるいは共同幻想だとか超自我といったキーワードが関係する何かを差し示しているように思うのだが……

 最後に、当該論文から最も印象的だった箇所を引いておくので、よかったらみなさんも、これが差し示す射程について一緒に考えてください。

 彼の一切の仲間、つまり彼の知っているすべての人が、彼に対する態度を変えてしまい、彼を新しいカテゴリイの中にすえる。彼は今や、共同体の存在している日常性の世界よりも、神聖でタブーなる領域により近い所にいる人間とみなされる。彼の社会生活をなりたたせている組織は、崩壊してしまい、もはや集団の構成員でない彼は一人ぼっちで、孤立する。このように運命づけられた人間は、その唯一の逃げ場が死であるような状況に追い込まれる。結果として出てくる死にいたる病(death-illnesss)の間、その集団は、その組織の全幅、全域をあげて、また無限の刺戟をもって、積極的に犠牲者に死をほのめかすよう働きかける。当人に加えられる社会的圧迫の他に、犠牲者自身は、原則として生きる努力や集団の一員に止まる努力を何もしないだけではなく、自分の受けとる多種多様な示唆を通して、集団から引きあげることに協力する。彼は自分の仲間の部族民の態度が彼にそうあってほしいと望むものになってゆく。

『現代のエスプリ 呪術の世界』所収、W・B・キャノン「ヴデュー死」p.152





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安田鋲太郎
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