「反対意見も読むように心掛け」なくてもいい三つの理由


 ただ、これを言う人はだいたい僕から見て好感度の高い人、尊敬できる人、話していて楽しい(とこちらから思っている)人が多いので、異論を唱えるのは心苦しいのだが意見に私情は禁物である。納得するしないは自由、ピンと来なければ「ふーん、そういう考えの人もいるんだ」程度に流していただければ幸い。

 で、そういう人たち曰く「わたしは自分と違う意見も読む(聞く)ようにしている」。具体的にはSNSにおいてブロックを極力しないとか、不快な(時にはどう見てもたんなる嫌がらせの)クソリプにも真面目に応答する、極端な意見の人と敢えて対話を試みる、といった行動に結びつくことが多い。
 たしかにその心掛け自体はひじょうに尊い、リスペクトしうるものであってますます好感度が上がってしまうのだが、それでもやはり「それってそんなに必要なことなんですか?」と思えてしまうのである。
 何故そう思うのか。理由は主に3つある。

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 【理由1 反省性は内在的なものである】

 ここでいう「反省性」とはつまり、自分の意見を客観視し、偏りや盲点に気付く力のことだが、これは本人に内在する能力であって、どれだけ〝自分と違う意見〟を外部から摂取したかとは切り離して考えるべきである。
 つまり「反省性」が備わっている人は、ちらっと見かけたていどの僅かな情報、思考過程での想定反論、時間の経過による状況・心境の変化や新たな出来事などによって思考や価値観を自己チェックする力を持っており、ことさら積極的に、不快な思いをしてまでネット上の〝自分と違う意見〟を摂取する必要はない(これは【理由2】とも関係してくるので、ぜひ引き続き読んでほしい)。

 逆に言えば「反省性」が備わっていなければ、毎日のように〝自分と違う意見〟を浴びていてもぜんぜん視野は広がらないし自己客観視も出来ないのである。
 たとえば常にリプバで罵詈雑言を投げ合ってる人たち。彼(彼女)らこそは最も〝自分と違う意見〟を大量摂取しているはずなのに、ぜんぜん冷静にも客観的にもならない。むしろ先鋭化、カルト化する一方ですよね。
 そんなわけで、重要なのはどのくらい外部の〝自分と違う意見〟を摂取したかではなく、自分のなかに「反省性」が備わっているかどうかなんです。
 そして、僕との会話で「わたしは自分と違う意見も読む(聞く)ようにしている」と言っていたような人たちは、だいたい僕から見れば充分に「反省性」が備わっている。むしろそういう人たちは、アテンションありきの極論オピニオンやクソリプに付き合うことの疲弊を慮ったほうがいいのではないか、と思えるわけです。実際それで疲れてアカウントを消してしまった人もたくさんいました。


 【理由2 情報は遮断するくらいがちょうどいい】

 こんにちの社会において、基本的に情報は向こうから追いかけて来るものである。
 一部の稀少かつ有益な情報は自ら取りにゆかなければならないが、ネットの〝自分と違う意見〟なんぞは遮断しても遮断してもなおフィルターをかいくぐってあなたの元へと届く。

 たとえば、先程触れた「アテンションありきの極論オピニオン」を数人思い浮かべてください。彼らをブロックしたとします。でもその存在は全然消えません。なぜならフォロワーが言及するから。
 さらに積極的に、彼らのアカウント名や頻出キーワードを非表示設定し、そういう話題の多いフォロワーをミュートしてもまだまだ消えません。なぜならトレンドに浮上したりスペースで誰かが話題にしたり、ネットニュースを見ているとふと名前が出てきたりするから。
 ・・・そういう努力を繰り返して、ようやく彼らの名前を見かけなくなったとしてもどうせ明日には別の、似たような極端なことを言うオピニオンが出現し、たちまちあなたのTLは元の木阿弥になる。あとは同じことの繰り返し。

 村上春樹はエッセイ集『やがて哀しき外国語』のなかで、プリンストン大学近郊と引き比べ「東京では情報を遮断するくらいがちょうどいい」という意味のことを書いていますが、これは「東京では情報量がちょうどよくなるまで遮断する必要がある」という意味に他なりません。いわんやインターネットにおいてをや。
 そう、不快な極論オピニオンもクソリプ野郎もどうせ遮断しても遮断しても山姥のように追っかけてくるのでことさら自分から見にゆく必要なし!
 それに、反省性の備わっている人は一度見かけた〝自分と違う意見〟が長く記憶に残り、「ああいう考えの人ならこの問題についてはどう考えるんだろう」とか、自分のなかで応用的にシミュレートさえします。
 僕もかなり見たくないものを遮断しまくってるんですが、それでも不快な極論オピニオンの名前やポストを目にしない日はないとい言っていいくらいです。彼らが視界から消えることはおそらく永遠にないでしょう(なんのかんので自らクリックして開いたりもする。人は不快なものほど見てしまうように出来ているので・・・)。


 【理由3 クズをつけあがらせてしまう】

 けっきょく、極論オピニオンはそのドギツさで注目を集め、顰蹙さえも利用して発信力を積み増ししビジネスに繋げる生き物なので、相手にするだけ向こうの養分になってしまう。
 泡沫のクソリパーは構ってもらうことが目的なので、真面目に応答することによってある種の〝成功体験〟を与えてしまう。それによって嫌がらせが習慣化してしまうんですね。

 (余談だが観測していると、何らかの活動や発信をしており、したがって相手は潜在的な支持者や顧客なのでただちに排除したり露骨に嫌な顔がしにくい、そういう女性アカウントにクソリプは集中しがちに見える。こんなのどう見ても嫌がらせやろ、というクソリプに対してもきちんと応答したりして、結果として無料キャバクラになってしまっている。向こうはそれがやめられなくてやっているわけだ。例外としてクソリプでも相手することによって何らかのメリットがあるならばまあわかる。クソリプ捌きの芸がコンテンツになっているとか、丁寧に応答することによってある種のアカウントの信頼性を担保するとかそういったような。それもまあ、メリットとコストを慎重に検討する必要があるけれど・・・)

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 といったあたりで書きたいことはだいたい書きましたね。
 これはあくまで「僕はこういうふうに考えてやってます」という話なので、いま現在「自分と違う意見も読む(聞く)ようにしている」人たちに僕の考えを押し付けるものではありません。
 まあ、部分的くらいでも「なるほどそういう考えもあるのか」みたいな、参考になる点があれば幸いです。
 それでは今日はこのへんで(・ω・)ノ

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