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「あなたがたを休ませてあげよう」

 ホガースの「居眠りする会衆」は教会の一場面を描いたものだが、なんだか気に入ってしまった。見ていると、高校の生物の授業を思い出す。覇気のない、痩せたメガネの男性教師がぶつぶつと細胞核がどうのミトコンドリアがどうのと話をしていたと思うが、クラスの半数くらいが寝ていたのではないだろうか。あのなんともいえぬけだるい空気と同質のものが、この絵を眺めていると漂ってくるのである。

ホガース「居眠りする会衆」(1735)

 説教師の冴えない顔。虫メガネで聖書マタイ伝の一節「すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい、あなたがたを休ませてあげよう」というくだりを読み上げている。そこで文字通り、会衆たちは「休んでいる」というわけ。
 かつて、教会での説教というのは人びとの数少ない娯楽を兼ねていたので、話術のたくみな説教師には人々が詰めかけたそうだが、この説教師はあきらかに「ハズレ」の部類だろう。しかもつまらないだけではなく話が長い。彼の傍らにある砂時計は砂が落ちきっていて、決められた時間を超過していることを表している。そういえば、先の退屈な生物の授業が、チャイムが鳴っても終わらなかったことがあった。うまい具合に話をまとめられなかったのだ。生徒たちはあからさまな侮蔑のまなざしを教師に向けた。あんたさー、つまんないんだからせめてチャイム前に終われよ、このチー牛。生徒たちは教師を無視してがやがや話しはじめたり教室を出ていったりした。

 *

 絵には7人の会衆がいる。左手前に5人、階上席に2人、説教壇の真下に若い娘が1人。そして全員が眠りこけている。説教壇の側面に書かれているのはガラテヤ書の一節で「わたしはあなたがたのために無駄に努力してきたのではないか、と恐れる」というパウロの言葉。これは居眠りする会衆に向けられているようだが、考えてみれば生気なくだらだら聖書を読み上げるだけの説教師や、娘の胸元をのぞき見しているデブも同罪だ。つまりこの場にいる全員が、有り難い神の教えにあずかる資質を持っているかどうか甚だ疑問、というわけだ。

 だが、少なくとも平穏ではないか? ということはある。思えば退屈な授業に「退屈だなあ」と感じていた頃、ぼくたちは大人の慌ただしさを知らずにいられた。むろん試験だの部活だのバイトだの家の手伝いだの、忙しい奴は忙しかったかも知れないがそれは大人の、大人であるがゆえの忙しさとはまったく別物であった。
 眠りこけている会衆は日々の喧噪を離れてどんな夢を観ているのだろうか。胸元のぞき見というのもけっして褒められたことではないが、いかにも昔ながらの、田舎くさいのんびりした愉しみではある。こんなけだるい昼下がりも案外良いものではないか? 「あなたがたを休ませてあげよう」――

 *

 昔なにかの本で読んだのだが(思い出したら追記する)、ある聖職者が「最近は教会で居眠りする人がいなくなった」と残念そうに言っていたという。真面目に話を聴くか来ないかの二択というのはどうもよろしくない。つまり、それは教会が人々の生活に根を下ろしていないことを意味するからだ。そうではなく、なんとはなしに――博打の帰りに、気が向かない用事をサボって、子供の頃から親に連れられて来ていたから――そういう習慣として足を運んでくれる層がもっと必要だ、というようなニュアンスだった(以下は微妙に関連記事)。

 いよいよ今年も残り僅かとなって皆さん大忙しの頃かとは思いますが、ここを乗り切れば正月休みになって、そうしたら、わりとこういう、いい感じに退屈な一時も過ごせるのではないでしょうか。それを期待しつつもうひと頑張りですね。
 では(・ω・)ノ

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安田鋲太郎
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