夏の終わりの夕空に ~社会に適応できない僕らの「生きづらさ」と「答え合わせ」~
昨今「生きづらさ」という言葉をよく耳にします。
いきなりこんなことを言うのもあれですが、深刻な生きづらさを抱えた人には、たぶん僕なんかが何を言っても薄っぺらくなるだけなので言いません。
きっと、僕以外の優しい誰かが手を差し伸べてくれているはずです。
僕がこれから書く文章は、こんな自分が「生きづらい」なんて言っていいのか? と思っているあなたへの、独り言みたいな手紙だと思ってください。
また、この記事は「『生きづらい』と言っていいのだろうか」と考えているのはあなただけじゃないですよ とわかってもらうために書いたものであって、この疑問の答えを示すものではないことをご了承ください。
もしこの問いにあえて答えを与えるのであれば、少々身も蓋もない言い方にはなりますが、
「あなたの思う『生きづらさ』はきっと正しい。だけどそれを主張するのは間違っているかもしれない」
といったところになるでしょうか。
こんなことを考えているのが僕だけだったらこの文章は誰の心にも届かないわけですが、まあそれならそれでいいでしょう。
僕が常々思うのは、生きづらさを主張できない「生きづらさ」というのもあるんじゃないか ということです。
テレビやネットなどで、生きづらさを抱える当事者の話を聞くと、「ああ、こう思っているのって自分だけじゃなかったんだ」と、どこか救われた気持ちになります。
一方で、「この人たちはこんなに頑張っているのに自分はなんで頑張れないんだろう」「どうしてこの人たちはこんなつらい思いをしてまで頑張れるんだろう」という、ある種のコンプレックスも感じるんです。
僕が感じる周囲とのズレや息苦しさ(あえて「生きづらさ」とは言いません)は、「恵まれている、だからやらなきゃいけない、なのにできない」というところからきているんですよね。
だから僕には、不幸を嘆く資格なんてないんじゃないかと思うんです。
自分はつらいと思っても、もっとつらい思いをしている人はほかにいくらでもいる。
一方で自分には支えてくれる家族もいるし、友人からも見放されたわけじゃない。
暴力を振るわれるわけでもなければ、罵声を浴びせられるわけでもない。
むしろ恵まれているんじゃないか。
じゃあいいじゃないか、と言われそうですが、そうじゃないんですよね。
自分に良くしてくれる人たちに何も返せず、申し訳なさばかりが募る。
やりたいこと・やらなきゃいけないことはいくつもあるのに、それができない。
そんな自分が、たまらなく嫌なんです。
嫌なんですけど、何もできないんです。
知らないうちに疲労が溜まってある日突然倒れる人と、疲労が溜まる前にどこかに不調をきたしてそもそも頑張れない人がいる、という話を聞いたことがあります。
僕は明らかに後者ですね。
後者の場合に何が問題かというと、いざというときに頑張れない、そして頑張れないことに対するコンプレックスが生まれてしまうということだと思うんです。
「何事も頑張れないお前に、『生きづらさ』を主張する権利なんてない」
「勝手に自分で自分の首を絞めて、勝手に人生をハードモードにしているだけだろ」
「『生きづらい』なんて、頑張りもしない奴が言うんじゃないよ」
たとえ自分が「生きづらさ」のようなものを感じていても、もっと深刻な生きづらさを抱えた人たちからそうやって後ろ指をさされるかもしれない、ということが常に頭に浮かんでしまいます(常に頭に入れておかなければいけないことだとも思います)。
生きづらさを感じていない人に否定されるならまだしも、生きづらさを感じている人に「生きづらさ」を否定されてしまったら、もう絶望しかありません。
「誰が何と言おうと知ったことか!」と割り切ってしまえるなら別にいいんですが、僕はそこまで自分に自信をもてるわけではありません。
だって、自分が感じる「生きづらさ」に、自分でも疑問をもっているんですから。
「他人と比べなければ楽になれるよ」という言葉も何度も聞きましたが、よく言うよ、くらいにしか思えません。
何歳頃だったか、僕は自分がまわりとちょっと変わっていると子どもながらにわかってしまったので、必死に他人と比べて、普通になろうとしてきました。
気がつけば、自分の意志は空っぽで、感性まで他人のそれに染まっていたように思います。
そんな僕にとって、今さら自分主体で生きろと言われても何をすればいいのかわかりません。
「他人と比べなければ」とか言う人に限って、僕が心のままに選んだ言動を否定しそうな気さえします。
多様性が認められ、社会がどんな人でも受け入れているような顔をしているからこそ、そこから外れてしまうことで感じる孤独や絶望が、いっそう大きくなってしまうんですよね。
そんな広い受け皿にさえも自分は入ることが許されないんだろうか、と。
以前は正しいとされていなかった多くのものが「正解」と言われるようになったけど、「不正解」は依然として存在している、ということもできるしょうか。
社会という受け皿はたしかに大きくなったのでしょうが、そこにはいくつもの落とし穴があるように思えてなりません。
だから、社会からはみ出してしまう人や光が当たらない人が、いつまでもなくならないんです。
「逃げてもいい」「逃げ道はいくらでもある」と世間は言いますが、逃げたあとの人生の保障はしてくれるのでしょうか。セーフティネットは果たして用意されているのでしょうか。
それに、逃げ癖や負け癖がついてしまう可能性もあります。
逃げ続けて、投げ出しまくって、その先に何があるんでしょうか。
(そういった意味で、「一つの職場で3年続かない奴は何やってもダメ」みたいな言説は、あながち間違っていないんじゃないかと思うのです)
それに僕は、あくまで悪いのは自分だと思っていたので、「相手を加害者にしたくない」という気持ちがあったんです。
逃げる(あるいは「縁を切る」「切り捨てる」)という行為は、悪者ではないはずの相手を否定してしまうことのように思えて、僕にはできませんでした。
学校に行くのが嫌だった時期もありましたが、まあ別にいじめられていたわけでもないし、友達と呼べる同級生もいないわけではなかったので、「学校はクソだ」とか「不登校になってやろう」とかいうのはなんか違う気がしたんです。
また、社会人1年目の秋に精神に支障をきたして、勤めていた会社を(半ば強制的に退職させられる形で)辞めたんですが、労働環境も一緒に働いていた人たちも、僕は悪いとは思いませんでした。
合わなかったとすれば、社会というシステムそのものだったのだと思います。
ひとえに僕が社会に適応できなかっただけです。
あれから2年半ほどの時間が経っていますが、まともに社会復帰することはできないままでいます。
「辞めてよかった」とは未だに思えません。
「逃げろ」という主張とは対照的に、「失敗を恐れずやってみよう」と言う人もいます。
ですが、一度も就職したことがない人よりも何度も転退職を繰り返している人のほうが、人生で一度も彼女ができたことがない人よりも何度も短期間で彼女が変わっている人のほうが、まったく挑戦しない人よりも何度も挑戦して失敗しかしていない人のほうが、人格や能力に問題があるとされるのが世の中です。
つまり、完全なゼロよりも少しプラスに振れてしまっているほうが弊害は大きいんです。
だから「失敗を恐れるな」とか「逃げ道はいくらでもある」という言葉は少し無責任なんじゃないか、と思ってしまいます。
持論ですが、世の中には2種類の人間がいます。
思うままにやってなんとかなる人と、思うままにやったら破綻する人です。
(どちらが多いかという分布としてはあまり偏りはないように思います。そして時代や環境によって変化しうるものだとも思います。僕は「学校」というコミュニティの中では特に何も意識しなくてもやっていけたんですが、「社会」というコミュニティに出たとたん急速に破綻していきました)
「思うままにやったら破綻する人」はどこかで思考や習慣を変えないといけなくて、だけどそれは大変な苦痛を伴うもので、しかしながらそれでもうまくいかないこともあります。
「後者から前者になった人」や「後者だけど成功する人」になれるかどうかは、「自分を捻じ曲げたのにうまくいかない」という絶望を受け入れる覚悟ができるかどうか、という点にあるのかもしれません。
そんな覚悟ができたら、たぶん生きづらいかどうかを悩むことなんてなかったでしょう。
うまくいけばおそらく生きやすくなるでしょうし、うまくいかなくても、自分を捻じ曲げるほどの努力ができたのなら生きづらさを主張する権利はもう十二分にあるはずですから。
僕は今年で26歳になりましたが、このくらいの歳になると、どうやら同年代の人はたいていの快楽や恐怖には慣れてしまっているみたいです。
あぁ僕はもう誰の心も動かすことはできないんだな、と思うことがあります。
僕にできることといったら、同じように自分は誰も感動させることができないと絶望している人をかろうじて満足させることくらいかもしれません。
だから僕は、「自分はもう誰からも必要とされないし誰一人幸せにすることはできないだろうな」とぼやきながら毎日を送っているような人と友達になってみたいんです。
叶うならば、そんな人にこそ僕が書く物語やブログを読んでいただきたいと思っています。
「俺について来れば大丈夫だ」とか「こうすれば君も自信をもてるようになる」なんて大それたことは言えませんが、あなたが一歩を踏み出せるようになるまで、少しでも寄り添っていけたらとは思っていたいです。
僕はいつか、「この世界で成功を収めている人には絶対に共感してもらえなさそうな話」を書きたいと思っています。
独りよがりだと非難されそうですが、そういう物語こそ、確実にどこかに需要はあると信じています。
相手の欠けている部分を否定せず寄り添うことが「優しさ」であり、何も持たない人が何も得ないまま救われるのが「優しい世界」だと僕は思います。
(僕はまだまだ優しくなれてはいないなぁと思います)
努力もろくにできない、何を成し遂げたいというわけでもない、自分が生きづらいかどうかさえわからない。
そんな僕たちが辿る人生は、決して「正しい」と言えるものではないかもしれません。
ですが、「正しい」と「間違いじゃない」は、大きく異なると思います。
正しくはないけど、「間違いじゃない」とは言える。
そんな生き方もきっとある。
僕が証明したいのはそこなんです。
僕たちは、いわゆるグレーゾーンにいると思います。
何にも染まっていない白はよく目立つ。
何からも染められない黒もよく映える。
本当に見つけにくいのはぼやけたグレーであり、グレーな部分にいる僕たちこそ、誰からも目を向けられず、社会という枠組みからこぼれても誰も気づきすらしない存在なのではないか。
グレーゾーンは、救われないどころかそもそもスポットが当たらない。救われていいのかどうかすらわからない。
そんな僕たちに必要なのは、「正解」の選択ではなく、「不正解」の受容だと思います。
「人生やりたいことをやりましょう」というのが真であることは、いろんな人が証明しています。
ですが、「人生やりたくないことはやらなくてもいい」ということはあまり言われません。
なぜか?
思うに、それを証明するのが非常に難しいからではないでしょうか。
あるいは、ほとんど自明に間違いだと言えるからかもしれません。
ですが僕は、これが「間違いじゃない」ということを証明したいんです。
僕みたいなタイプって、「やりたいことをやればいいんだよ」とか「好きなことをして生きていこう」という言葉では救われないんですよね。
そんなことを言われても、かえって息苦しく感じてしまうだけです。
「自分のなりたい姿」と「社会に求められていること」が重なっていればそれでいいんですが、実際はそうでない場合がほとんどで、でももっと苦しいのは「自分が絶対になりたくない姿」が「社会に求められていること」と重なっている場合だと思います。
僕の場合、「こうなりたい」という明確な目標はありませんでした。
ですが「こうはなりたくない」と思うことはあって、社会ではそれが当たり前のように求められているように感じました。
社会で生きていこうとすると、自分が自分でなくなってしまうのではないか、という感覚が常にありました。
頑張れないなら頑張らなくてもいい。
やりたくないことはやらなくてもいい。
そんな考えも間違いではない。
僕の作品が、あるいは価値観が認められれば、そういったことの証明になると考えています。
同じ悩みを抱えているのが自分以外にもいるとわかれば、自分は間違っていないと認めてくれる人がいれば、世界は少しだけ、生きやすくなると思っています。
だから僕は、「自分と自分に似た誰かの世界を肯定できるような物語」を作りたいと思うのかもしれません。
まとまりのない長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。
ここまで読んでくださったあなたは、この記事に何か思うところがあったのではないかと思います。
あなたが今どこで何をしているかを、僕は知りません。
あなたが具体的に何に悩んでいるのか、僕にはわかりません。
ですが、あなたが抱える痛みや悩みはきっと切実で、そんなあなたの言葉は紛れもない本物です。
あなたの想いはきっと誰かの心に響くし、あなた自身の生きる原動力にもなるのではないでしょうか。
どんな方法でも構いません。
あなたの世界を、どうか見せてください。
それは間違いではないと、少なくとも僕は信じていきたいと思っています。
それでは、今回はこのあたりで。
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(元記事:https://braincruise.net/blog/idea/2713)