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第8回全国学生演劇祭 インタビューシリーズvol.2

日本学生演劇プラットフォーム代表理事・沢大洋に渋革まろんが10,000字インタビューを敢行。京都学生演劇祭の立ち上げから、全国学生演劇祭へと発展していった経緯、そしてこの10年の学生劇団がどのように変化し、どのような可能性がありうるのかについてお話を伺いました。


沢大洋はなぜ学生演劇祭をやり続けるのか 前編

──反骨精神で攻めた12年


「もっといけるやろ!」から学生演劇祭へ

まろん:本日は学生演劇祭を振り返って、立ち上げの経緯やこの10年で達成できたこと、今後の展望についてお伺いできればと思います。すごく基本的なところなんですが、学生演劇祭が始まったのはいつになりますか?

沢:2011年の2月に第1回の京都学生演劇祭が開かれましたね。

まろん:最初はどういった想いを持って始められたんでしょうか?

沢:もともと僕は京都ロマンポップという劇団に所属していました。2010年にやった『人を好きになって何が悪い』という公演のエキストラが十数人必要だったので、当時の学生劇団の座長に会いに行って、エキストラの出演者を紹介してもらったんです。そのときは12〜13劇団から集まったんじゃないかな。個人ごとのつながりができる良い機会になったんだけど、その後ろには多くの劇団員がいて、その人たちもつながってほしいとか、そういうことを考えているうちに、団体同士が直接つながれる機会を作ったら、もっと盛り上がるんじゃないかと。

まろん:京都ロマンポップの公演がきっかけだったとはいえ、そこから学生演劇祭の開催までにはけっこう飛躍がありますよね。

沢:東京中心ではなくて、京都中心の文化圏というか、演劇で面白いものが生まれる環境を作りたいというのがあって。今やってる役者だけで本当にそれができんのか、みたいな焦燥感はありました。京都は学生劇団の数も多いし、盛り上がればそこからおのずと面白い劇団や役者が出てくるんじゃないかという期待感を持ってましたね。

まろん:演劇祭を通じて、演劇がこうなったらいいみたいな目標も?

沢:漠然とは。ただ、演劇にはもっと何かできるはずだみたいなことがずっとありました。演劇祭を始めた当初も、やっぱり上の世代に納得してなかったよね。いやこんなんちゃうやろ、もっといけるやろみたいなのが多分あって。そういう意味でも高めたかったというのはあります。演劇の価値とか質とか影響力とか。それは今でも続いていて、逆に言えば僕自身が全然できてないなとも思います。


誰が一番面白い演劇を作るのかを競い合う

まろん:最初はどんなふうに動き出したんでしょうか?

沢: 最初はロップの劇団員に相談したんだっけかな。『人を好きになって何が悪い』の時期に演劇祭の話が持ち上がったから、公演に参加した学生を実行委員会に誘った記憶があります。それで企画書も書いたんだけど、こんなふざけた企画書で制作に負担をかけるなよって劇団員に怒られちゃって。

まろん:京都ロマンポップの企画という位置付け?

沢:そこまではいかないけど、だいぶサポートしてもらいました。向坂(元・京都ロマンポップ主宰)もアドバイザーについてくれて色々と相談に乗ってもらいました。あくまでも劇団活動が優先だけど、応援はするよというスタンスでしたね。

まろん:実際に学生を演劇祭に誘ってみて、反応はどうでしたか?

沢:当時、京都ロマンポップは学生に結構知られていたから。『みんな大好き!ー沢先生物語ー』(隠岐島で教師をしていた沢の父親を題材にした演劇。沢自身が父親の「沢先生」を演じた)を見てくれていたりすると信用してもらえて。

まろん:確かに、沢先生は信用できます(笑)。

沢:そういうのもあって結構乗ってくれたんですよね。学生劇団の3〜4回生の子らが実行委員やりますよと言ってくれたりして。最初は6団体くらいを想定してたんだけど、意外と人が集まって12団体が参加してくれました。たぶん、ちょうどタイミングが良くて、なんていうか、月光斜やケッペキは強かったけど、蒲団座とか劇団紫とか、面白い人達がわんさかいたんですよ。集客力のある劇団はやっぱり知名度がある。でも、そうではない劇団が「こっちも面白いものを作ってるんだぞ」と彼らを見返すことのできる良い機会になったというか。

まろん:学生劇団が目立つ大学と、そうではない大学はやっぱりあったなと思います。

沢:だから第1回の劇団ACTは印象深いです。あの子らは本当に1500人ぐらい収容できる学内の大きなホールでやるんだけど、お客さんは10人ぐらいしか座ってなくて。でも学生演劇祭では、満員の客席を前に、大爆笑をとってるわけですよ。これこそ演劇祭の意義だなと思いました。

まろん:第1回の京都学生演劇祭は、紫の合田団地とか、西一風の市川タロとか才能のある作り手が参加していましたね。

沢:今も続けている人が多いから、やっぱりそういうタイミングだったんだろうなという気はします。立芸の横山清正は今も役者をやってるし、ACTの丸山君も講談師をやっています。テフノロGの脇田君も舞台監督として活躍しているし。

まろん:月面クロワッサンの作道君もこのあいだベネチア国際映画祭に映画監督として招待されてました。

沢:これから演劇なり、表現を続けていきそうな人たちが集中した世代と、学生演劇祭を始めたタイミングがちょうど合致したのかもしれません。


反響の大きかった京都学生演劇祭

まろん:まわりの反響はどうでしたか?

沢:京都学生演劇祭という京都を包括する演劇祭を名乗っているから、反感を持つ人もいたんだけど、基本的には温かく迎え入れられたと思います。やっぱり第一回は反響がすごくて、ツイッターの反応にしても、当時のKYOTO EXPERIMENTより盛り上がっているという人もいたくらい。名古屋や福岡から見に来てくれる人もいました。

まろん:自分自身で企画したので、言うのも何なんですけど、僕も「オルタナアートセレクション」という企画を立ち上げて、市川タロ君の作品をアトリエ劇研で全面的にサポートすることをやりました。それに加えて、1年目はままごとの柴幸男さんがワークショップに来てくれたんですよね。

沢:それは重力/Noteの鹿島君が紹介してくれたんです。僕が『わが星』のDVDを見て、ものすごく感動していたのがあったから、第一回目だしワークショップもあったらいいんじゃないと提案してくれて。

まろん:00年代後半の演劇シーンは──現在はわからないですけど──東京と京都で大きく乖離している印象を僕は持っていたから、柴幸男さんのワークショップで、東京の文脈を知ることができたのもすごく良かったと思っていました。だからそういうのも含めて、京都学生演劇祭は、大学内での活動が主だった学生劇団の垣根を取り払った上で、審査員からの評価、普段は出会わない観客、他劇団の上演を観る機会、ワークショップの体験を通じて、自分たちの活動や作品をもうすこし広い視野から相対化して見ることのできる場所を作り出していたと思います。

沢:会場がART COMPLEX 1928だったのも演劇祭の牽引力になっていたと思う。学生の憧れの的でしたからね。だから学生も参加したかったし、注目度も高かったんじゃないかな。


鬼門の3年目を乗り越える

まろん:運営が学生主体で行われているのも学生演劇祭の良さだと思います。第1回目にしても、沢さんが陣頭指揮を取るというより、学生が率先して動いていた印象があります。

沢:最初の頃は、僕のほうが制作的な知識に乏しかったから(笑)。学生劇団でバリバリやってる子が、「こういう感じにしたい」と言って陣頭指揮を取ってくれて。僕は「頑張れ」と叱咤される側でしたね。

まろん:沢さんは演劇の制作をやってたわけじゃなくて、役者として活動してましたから。僕も沢さんが学生演劇祭を始めたのはかなり驚きました。その後も学生が引き続き?

沢:いや、やっぱり実行委員の仕事はハードだから。3回目くらいから学生劇団のメンバーが実行委員に関わらないようになっていきました。そうなると僕が引っ張っていくしかないんだけど、僕自身の能力不足もあり、かなり苦労しましたね。その後はまたしばらくすると「僕がやりますよ」という学生が増えてきたんだけど……結局、学生劇団は代替わりしていくもので、年度によって学生と実行委員の関係は変わっていきます。

まろん:プロジェクトの3年目は立ち上げの熱も冷めてくる時期で、今後も続けていくかどうかが問題になりがちです。

沢:個人的なことでは、所属していた京都ロマンポップを辞めて、役者をどんどんやらなくなっていくことへの葛藤がありました。それでもプロデューサーの能力は全然足りないし、けっこうきつかった記憶があります。でもそのころに助成金の申請書を書き始めたんですよ。

まろん:書き出したんですか。

沢:書き出してると思います。企画書も全然書けなかった人が…(笑)

まろん:プロデューサーの方向に舵を切った、と。

沢:迷いながら。それから全国は芸文基金とかの助成がつくようになって、京都ではロームシアターで全国を開くことができて、だんだんプロデューサーとしての知識も増えていきました。


各地の立ち上げから全国学生演劇祭へ

まろん:2011年の立ち上げから10年以上が経って、今では札幌・東北、東京・名古屋・京都・奈良・四国・福岡の8地域で学生演劇祭が開催されるようになりました。

沢:第4回目くらいになると、やっぱり停滞感が出てくるんだけど、第1回の半年後には名古屋の方でも学生演劇祭が始まっていて、それが各地に広がり始めたんですよね。

まろん:名古屋の立ち上げは沢さんから持ちかけたんですか?

沢:僕から持ちかける形ではなくて、京都学生演劇祭に刺激を受けた名古屋の学生が、劇団うりんこの平松隆之さんと一緒になって始めました。

まろん:他の地域の立ち上げはどういった経緯で?

沢:札幌は京都の1年前に「札幌学生対校演劇祭」(2010-)が始まっていたから、何回か見に行って、一緒にやりませんかとお声がけしました。福岡も第1回の京都を観に来てくれた人がいたから何度か会いに行って2015年にスタートしましたね。

まろん:福岡から京都まで足を運んでくれたのがすごいですね。

沢:噂を聞きつけたのかな。2人もいたんですよ。東北は短距離男道ミサイルの澤野君と話して、ちょうど京都が第4回の時、2014年に始まって、その流れを屋根裏ハイツの中村大地君がしばらく引き継いでくれました。

まろん:その後に、四国ですか?

沢:2015年に東京と全国のプレ開催があって、四国はその翌年の2016年に学生演劇祭(愛媛のみの開催)が行われました。

まろん:2010年に札幌、2011年に京都と名古屋、2014年に東北、2015年に福岡、東京、2016年に四国と、各地で演劇祭が立ち上がったわけで、これは本当にすごいことだと思います。

沢:僕がおすすめしていったこともあるけど、学生劇団で演劇祭のようなものを求めていた層が全国各地にいたのかもしれない。それでその次の展開として全国学生演劇祭を考えたわけです。各地の演劇祭で勝ち上がった劇団がやりあったら面白いんじゃないか。よし、やってみようと思って。


東京と地方では演劇祭を求める理由が違う

──東京と全国の立ち上げの経緯を教えてもらえますか。

沢:全国と名乗るからには、東京学生演劇祭も立ち上げたい。そこで東京に何回も通って、最初に乗ってくれたのが慶応大学の創像工房にいたOBの子でした。それがあってなんとか4団体で第1回を開くことができた。

まろん:最初はどこの大学の劇団が集まったんでしょうか?

沢:慶応、早稲田と立教、それから上智の4団体です。

まろん:「全国の前に東京を」という想いは強かったんでしょうか?

沢:京都学生演劇祭はもともと東京の演劇を意識して立ち上げたところがあったから。各地の刺激になるだろうし、東京の存在は大事だなと思っていました。

まろん:各地で学生演劇祭を立ち上げる動機には違いもあるのかなと思うのですが、どう思われますか?

沢:東京はフェスやショーケースの数が多いから、学生演劇祭もそういったコンペのひとつというふうに見えてるんじゃないかな。他の地域の場合は、大学外での上演の機会を求めて、というのが多いかもしれない。学生が借りられる金額で演劇をやる場所がなかったりするからね。

まろん:東京一極集中の構図は変わりつつありますが、それでも日本のスケールで見たときに人や言説、文化資本が東京に集約されるように見える現状は変わらずあると思います。ただ、全国学生演劇祭は年度ごとに開催都市が変わるんですよね。

沢:4回目まで京都でやって、5回目が名古屋、6回目が札幌(オンライン開催へ移行)で、7回目は福岡です。自地域の学生に、全国の同世代の選りすぐりの作品を観て刺激を受けてほしいという思いだったり、そういう思いに支えられてなんとか場所を変えてやれています。

まろん:全国の”中心”が移動していく面白さがあると思います。各地ではどういった反応がありますか?

沢:福岡の全国学生演劇祭では、審査員に地元の方で万能グローブ ガラパゴスダイナモスの椎木樹人さん、ブルーエゴナクの穴迫信一さんに来てもらったんですが、「学生劇団の印象が変わった。自分達も福岡の学生・若手のシーンを底上げしていくためにもっと頑張れることあるかもしれない」という感触を持ってくれたみたいです。各地に一定程度の影響はあるのかなと思います。


※2023年3月にインタビューを実施した記事です。

後編へ続く



編集・インタビュー:渋革まろん

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