ガザに爆撃が落とされたあとに ーアメリカ人医師が伝える”底知れない”恐怖(日本語訳)
アメリカ大統領選挙が迫るなか、民主党全国大会で初めて、パレスチナ人の人権に関するパネルが行われたそうだ。
右翼も左翼も、一羽の鷲(イーグル)にすぎない。つまり共和党でも、民主党でもイスラエル支持に変わりない。両党首はどちらがよりイスラエルを愛しているかで競っている。
パネル開催には、ガザ攻撃への草の根レベルの強い反対があったからだと、アメリカの独立系メディア「デモクラシー・ナウ!」はいう。
パネルでは、ガザ地区の病院に医療従事したアメリカ人医師たちが、そのあまりにも過酷なガザの医療現場を伝えている。
もはや医療現場も生活も境目のないガザの状況は、表現の方法がないほどにひどく、それも日に日にひどくなっている。
昨日、私のガザの友人は「一瞬一瞬が怖い。いつ爆弾、ロケットが飛んでくるかわからない。でも、そう考えるのを避けて、生活を続けている」と言った。
それは「何万人とあるうちの一つ」の話。それでも声なく死んでいった人たちの最期の様子を伝えた医師の言葉を、声を持つ、少なくともその手段を持つ人が伝えないとと思う。
以下、日本語翻訳を載せます。英語の全文は以下のリンクからご覧になれます。
ボランティアでガザの病院に従事したアフマド・ユサフ医師
こうやって話すのは簡単なことじゃないかもしれません。
3週間ほど前、ガザに行き、そこで約3週間滞在して帰ってきました。
私は主にアル・アクサ病院[ガザ中部デイル・アル・バラに位置する病院]のICU[集中治療室]と救急室で働きました。
私は政治家ではないし、軍事戦略家でもないけれど、国連の車列と一緒にラファを通過して、私たちが駐留することになるガザ中部に向かった瞬間に思いました。自分が今、目の当たりにしているものは、底知れないものだと、はっきりわかっていました。
私が治療していた少年のすぐ隣に、若い女性が運ばれ、横たわりました。彼女は22歳か23歳で、全身に熱傷があり、皮膚と同じ熱傷で気道もやられていたため、吸入障害を負った可能性が高く、話すこともできませんでした。
ドアの外から女性が、ハーミル、「彼女は妊婦だ!」と叫びました。
すぐに彼女の体を起こして、誰かがお腹に超音波探触子を当てると、18週から20週の妊娠が確認されました。しかし、二次検査を行い、他にも怪我がないか把握しようとしたところ、爆撃による怪我で脛骨〔足のすねの内側にある細長い骨〕の粉砕が見つかったのです。
彼女は全身の70%以上に火傷を負っていました。ガーゼも清潔な水もなく、抗生物質もないような環境では、死を宣告されたようなものでした。私たち医者は皆、彼女を見た最初の数分間、外傷室でこのことが何を意味するのかを悟りました。
彼女はそこで死ぬ。お腹の赤ん坊もそこで死ぬ。
イスラエル政府、イスラエル国防総省は、人々が当然のように受けるべき医療ケアを不可能にしたのですから。すべての人間が、このような状況で医療援助を受ける権利があるはずなのに・・・。
彼女は戦士ではありません。爆弾が彼女の頭上に落ちたとき、彼女は自宅で座っていた妊婦でした。
彼女は最終的にICUに移りました。そして毎日、彼女は生きました。死がやってくるまで。死ぬまで痛みに苦しみながら。痛みを和らげるための薬がなかったからです。アメリカであれば、創傷治療で彼女の包帯を交換する前に、ヒドロモルフォン[鎮痛剤]を2錠出していたはずです。でも、現地では何も飲ませられませんでした。
毎朝、周回の際、私たちは彼女のベッドに最初に立ち寄りました。ガザの医療関係者たちは、みんな英雄です。いつかここに来て、あなたたちの前で彼ら自身で話してくれる日が来ると願っています。そうすれば、彼らのかわりにこうして自分が話すこともない。
私たちは皆、口をつぐみ、涙をこらえていました。何もできないことは分かっていたし、死を避けられないことも分かっていたからです。
ある日、彼女のベッドは空っぽになっていました。
彼女の物語は、何万とあるうちのひとつに過ぎません。そして彼女の家族は、私たちが自分の家族を悼むように、彼女の死を悼みました。そして彼女も、ガザのすべての人々も、人類全体が責任を負い、差し出す義務のある、尊厳と支援に値します。
私は今日ここに立ち、最後にこう考えて締めくくろうと思います。
私が眠れない理由も、私たちが涙を流す理由も、もう悲しみからではありません。
自分たちには何の能力もないという感覚・・・、[アメリカは]世界で最も強力な国でありながら、罪のない人々に爆弾を落としています。私たちには流れる血を止める力がないのです。だから、私たちは停戦を求め、爆弾の販売を止めることでその血を止めるのです。あの若い女性の頭に落ちた爆弾が、アメリカ製の武器であるべき理由はどこにもないのです。
過去10カ月間に数回ガザで医療従事を行った、小児集中治療外科医のターニャ・ハジ=ハッサン医師
ガザでは10月以来、17,000人以上の子どもたちが両親を亡くしています。
私は、最後の息を引き取る子どもたちの手を握ってきました。なぜならその子たちの家族は全員同じ爆撃で殺されてしまい、彼らの手を握り、慰めながら、その場にいることができなかったから、そしてその後埋葬することもできなかったからです。
私は、大量殺傷が進行している最中に、顔と首の半分が吹き飛ばされた少年を救急室に受け入れました。幸い、呼吸と脳への血液供給に不可欠な臓器は温存されていました。臓器は露わとなっていましたが、一命は取り留めていました。
少年は私たちに話しかけてきました。彼は、自分の姿を見ることができなかったので、その時点で自分がどんな姿をしていたかわかりませんでした。そして、自分の妹のことを聞き続けていました。妹は隣のベッドにいました。彼女の体の大部分は見分けがつかないほど焼けていました。少年は、隣のベッドにいた少女が自分の妹だと気づきませんでした。
彼の家族は全員、両親も、残りの兄弟も、同じ攻撃で殺されましたが、その子は生き残りました。
次の日、私は少年の様子を見に行きました。とても若い形成外科医で、ガザに残っている数少ない形成外科医の一人が―――他の形成外科医は殺されたか、すでに[ガザの外に]避難しました。避難はこの状況では当然のことです―――少年の胸の一部を切除し、首の大事な臓器を覆うための移植片を作っていました。
彼はベッドに横たわったまま、話すのが困難なため、ぶつぶつとつぶやきながら、こう言い続けました。
私は彼の顔に必死と近づきました。
「自分も死にたかった。自分の愛している人はみんな天国にいる。もうここにはいたくない」