何か表現したいけど、表現するために書きたくないというジレンマ。
継続することの対極に辞めることがあると思う。 この選択を取ることの難しさについて考えてみたという回です。 会社でも部活でも何かしらのコミュニティに一度入ってしまったら、辞めるには大なり小なり手続きが必要になる。 端的に言うと、この手続きを踏むか否かが継続と辞めるの選択になる。 つまり、辞めるには手続きをするという多少の不快感を味わわなければならないと言うことだ。 逆に継続というのは現状に対する不満を消化できさえすれば何も問題ないということだ。 さてここで自分の話をしたい
過去に思いを馳せる中で気がついたことがある。 それは 小学生の頃、教師に歪まされた ってこと。 彼は自分の正義に反する児童に対して、晒すように怒る人間だった。 それまでは自分の思うがままに振る舞えていたが、一度晒されてひどく怖くなってしまった。 以来、他人の目や考えていることばかりを気にして相手に叱られないよう立ち回る癖がついてしまった。 もちろん、その時のこと全てが悪いかと言われればそうではない。 好き勝手振る舞いすぎると異分子として処理されてしまうことを体験できた
自分って色んな側面がありますよね。 今回はこれがいいか悪いかではなく、他人からどう評価されるのかって話をします。 結論から言うと、見えているものしか評価できません。 このトピックについて誰と話してもそれ自体は揺らぎようがない事実として存在してしまっています。 ある意味、学生時代の友人と卒業したら会わなくなるのはそういったことが関係しているのでしょう。 「中学、高校での友達」というレッテルのもと、関係を築いているんだと思います。 まあシンプルに交流機会が減ることも要因にあるん
どうもお久しぶりです。 今回は最近の学びについてです。 自分は中学生、高校生を相手に話す機会が多いです。 そんな彼らの中で大きく分けると二つの人種がいます。 会うたびに変化を見せてくれる人と反対に前と全く変わらない人。 彼らの違いについて思い返すと、口だけか否か、学びの姿勢の違いがあることに気がつきました。 長期のモニタリングのおかげで、表面上では従順を装っている人間こそ、深いところでは反発しているということにも気がつけました。 学びの姿勢、巷では「スチューデントマイ
久しぶりに書きます。 ものを書ける時って、思い悩んでいたり集中するべきことに向き合えていないで心ここに在らずな状態だって気がつきました。 今はなりたい自分になるために無我夢中で突き進むって決めていたけど、半月ぶりくらいに朝からローで何もできていません。 本も読めていないし勉強もできていない。起きたてのときなんて音楽さえ聴く気が起きなかった。 なんでかなあって思ったら、今日予定があるかどうか確定していない状態を受け入れられないからなんでしょう。 私は完璧主義で簡易計画を常
色々なことを考えていますが、明確な勉強不足のせいもあって消化不良です。 そのせいで書きたいことも書くべきことも特に思い当たらない週末を過ごしました。 土曜日は朝起きて作業をこなし、ジムに行って、仕事をしてお終い。 日曜日は朝起きて作業をこなし、家族と会話をして、ジムに行って、月曜のために色々準備してお終い。 本当に特筆すべきことは何一つもなかったです。 敢えて書くとすれば、自分を俯瞰できるようになる瞬間が以前より多くなった気がするってことくらい。 日々の瞑想と内省の効
今日の考えたことを少しだけ共有したいと思っています。 現代の技術を使う以上、我々は現代のプラットフォームの下成り立っている産物だということを理解しなければならない。 かなり棘のある言い方ですが、これくらいの語気が仰々しくていいんじゃね?って思いました。 例えば検索のサジェスト。 例えば予測変換。 例えばあるサイトのおすすめ。 そこに表示されるものは個人によって完全に異なっているんですよね。 これはそれらのシステムに学習機能が搭載されているからってことなんですけど、今回
あくまで個人的な感覚なんですけど、見てもらえることを意識しすぎて受ける文章を書くことばかり考えていましたね。たくさんの人に見ていただけるようになって、数字に拘り始め、アクセスしてもらえるようなトピックだけを選ぶようになっていました。もっと自分の奥に潜む、イキイキとした熱い気持ちを表現したかったはずなのに。 他の人には初期衝動を忘れるなとあれほど言っているのにブレブレでしたね。まあ過ぎてしまったことは仕方ない。これからは最初の自分の方針に戻って出来るよう、精進してまいります。
ここ2、3日で思い出したかのようにポッドキャストを聞き出しました。その中でああいい生き方してるなあって思ったことがあったのでその話でもしましょう。 まずはその番組を貼っておきます。 この中で、「曲作りもゲーム実況も生配信で全部やってオンラインアーティストとして生きていく」って話をしているんですよ。まあこの回の趣旨とはかなり異なっているんですけどね。 シンプルに楽しそう。自分のやりたいことが出来るからではなく、発信者としてのスタンスに憧れを見出しました。こんな風に発信でき
今日、ついに新譜をリリースしたカネコアヤノの良さについてだらだら書きます。と言っても音楽の専門的なことは微塵もわからないので、印象と概観しかないよ。 変幻自在 楽曲ごとに印象が全く違う。その違いも角が立たないのがシンプルにすごい。カネコアヤノバンドの充実感をめっちゃ感じさせるポイントですね。アルバム一枚でシューゲイズもサイケも感じられるのには中々出会えないので、聴くのがものすごく楽しい。 ただただ歌が上手い 私はバンドテイクがかなり好きでハマったクチだけど、ここまで好
ここ2週間くらい自分が1人でこっそり感じていたことをついに他人の口から言われてしまった。 彼女がいたときよりかっこよくなったよね ええそうですとも。時間もお金も全て自分のために使うようになって自己成長が生き甲斐になった今、現を抜かすものがあったときと比べて雲泥の差ができるのは最早当たり前です。 そんなことは自分でも思っていたし自分が一番わかっている。でも今回触れたいのはそこではありません。それは他人から認められることの喜ばしさとそれに伴う自己に対する満足感についてです。
久しぶりに日記的なものです。今日心躍った瞬間について書こうかな。 大学でのんびり飯食ってたら、向かいのテーブルの集団が「ある」と「いる」の話をしてたんです。最初はおそらく言語系の人たちなんだなあってただ眺めていたんですけど、何の名詞が接続されるのかって話をし始めました。私は1人でも常に結論を急いでるので、「生き物かどうかでしょ」って思ってその話を聴くのをやめました。 でもふと疑問に思ったんです。 「英語だと動物でもものでもis使ってね?」 いや正にその通りでした。今日一番
そういえば音楽が好きとか言っておきながらあまり焦点を当てて話をしたことなかったなあなんて思ったので、今日はその話でもします。 明確に意識して聴くようになったのが中3くらい、深く聴くようになったのが大学2年生のころだったかな。そのへんはおぼろげなんでわからないけど、実はそこまで長期間に渡って聴いてきているわけではないんです。こんな事言うと、長い期間楽しんでいることが正義だとか思っている閉鎖的な厄介な人たちに絡まれそうですが、そんなことどうでもいいんです。楽しければそれでいい。
お気に入りの曲のリミックスを聴いてふと音楽の話がしたくなった。 音楽に限らず芸術の好みって価値観がモロに出ると思うんですよ。今まで付き合った人、仲良くしてた人はここの感覚が違っていた。だからこそおもしろかったんですけどね。 例えば俺はインスト、一発取り、言葉では表せない感情を具現化させたものが好き。あの人はアイドル、言葉そのもの、整然としたものが好き。あいつはハードロックが好きだけど他の芸術には興味がない。 (誤解を招かないように言っておきますが、個人的に感情を具現化する
自己分析の過程で気がついたことをつらつらと書いていきます。 私は親しい人間に対してほど、自分のパーソナルな部分について話さなくなる傾向がありました。いつからか趣味は何だとか、どういうものが好きだとかそういった部分について深掘りすることを意識的に避けるようになっていました。決定するときも自分の意見を極力介在させないようにしていたなと思います。それはなぜかを考えていく中で、一つの感情を抱いていることに気が付きました。 「理解されないことに対する、潜在的恐怖」 思い当たるフシ