インストラクターの妙術④
三人のインストラクターそれぞれの問題点を指摘した上で、老人はさらに言いました。
「然しながら、諸君の修練してきたことも、全く間違いというわけではない。
真理は、道器一貫(目に見える形としての働きと、目に見えない陰陽の働きとが不離一体となっている)のものであるからだ。
動きの上手さ速さを追求して身につけた技術にも深い意義があるし、
気の充実というのもまた不可欠のものであって、 気が生き生きと働いていれば様々な状況に対応することができる。
また心を和して相手に応ずる時には、相手を包み込んで働かせず、金属や岩石のような強い力に対しても挫けることがない。
しかしそこにわずかでも意識が働くと、本来の自然な状態からは離れてしまい、
そうなれば相手はこちらに心服せず、敵対してしまうのだ。
私は別に、特別な術を用いているのではない。
ただ無心に、自己本来の在り様に任せているだけなのだ。」
そして老人は、さらに続けて言いました。
「だが、道とは極まるところのないものだ。
いま私が言ったことを以て、最高のものと思ってはならない。
昔、私がいた乗馬クラブに、あるインストラクターがいた。
その人は、いつも物静かで無口で、まるで木彫りの仏像のようだとさえ言われていた。
この人が馬に乗るところを誰も見たことがなかったが、その人の扱う馬はなぜか皆従順で、無駄に力むようなこともなく、とても乗りやすいと評判だった。
試しに担当の馬を替えてみても、やはりそうなってしまうのだった。
そこで私はその人に、どうすればそのようになるのかと訊いてみた。
ところがその人は、何も答えてくれない。
四度尋ねてみたが、いずれも答えはなかった。
だがよく考えてみれば、答えないのではなく、答えようがなかったのだ。
このとき私は、
「知る者は言わず、言う者は知らず」
(本当に物の道理がわかっていて、簡単にそれを言い表すようなことはできないことを知っているものは言わないものであり、簡単にわかったようなことを言う者は、本当に知ってはいないものだ)
ということを悟ったのだ。
この人は、自分という存在も、他者の存在をも忘れ、生きていながらあえて生きようとはしていない、在りながら無い、という境地に達していたのだ。
『神武にして不殺』(真に無敵の武技を持つ者は、敢えてそれを用いる必要が無い)というのはこのことであろう。
私もこの人の境地には、遠く及ばない。」
三人のインストラクターは、老人の言葉に、深く感心しました。
確かに、簡潔でわかりやすい言葉で説明されれば、なんとなく理解したような気にはなるものですが、それはときに誤解を産んでしまいやすいものです。
と言って、誤解のないように、と全てを網羅した説明をしようとしても、
三次元の世界で同時並列的に起こっている事象の全てを一度に言葉で言い表すのは不可能ですし、たとえ出来たとしても、聞く方が理解出来ないでしょう。
ある事柄について、簡単に断定的な説明で済ませようとする人は、その事について実は一面的にしかわかっていないか、あるいは相手に誤解されてもよい、と考えているとも言えるでしょうし、
それが二次元的な論理で説明できるようなものではないということを知っている人は、簡単には言わない(言えない)ものなのです。
「言う者は知らず、知るものは言わず」
そんなことを言われたら、乗馬のレッスンなど出来なくなってしまいそうですが、
教える者、学ぶ者どちらにとっても、心に刻んでおくべき言葉だと、三人は深く思ったのでした。
つづく