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トリックスターと芸人について考える


 「トリックスター」は、あるコミュニティがもつ道徳を無視し、秩序を乱すいたずらを行う一方で、抑圧・制御された世界にショックを与え、新たな文化を創造する、文化英雄的存在である。

 異端者という意味で近いものに「ストレンジャー」があるが、これは「共同体から逸脱し放浪する者」を指し、トリックスターは「共同体の内部に居ながら秩序を揺さぶる者」を指す。共同体の外部で放浪するストレンジャーと異なり、トリックスターは内部から人々の既成概念にショックを与え、新たな文化を創造する。これらは全く別物である。
 文化人類学者の山口昌男は著作『笑いと逸脱』の中で「よく混沌を知る者はよく秩序を知る、よく秩序を知る者はよく混沌を知る。」(注1)と語っている。秩序から逸脱して放浪するストレンジャーと異なり、トリックスターは共同体の中に居ながら混沌を生み出す分、より共同体がもつ秩序や倫理をよく知っている。トリックスターがいたずらをしてなお、共同体から排除されたり、共同体そのものが壊れることがないのは、人々が薄々感じている秩序への違和感を的確に指摘することで人々を納得させたり、道徳を無視した制御されることのない行動に羨望を抱かせたりする為である。

 爆笑問題がパーソナリティを務める深夜ラジオ『爆笑カーボーイ』の2022年7月12日放送回では、太田光が『嫌いなMCランキング2022』で第2位に選ばれた一方で、7月10日に放送されたTBS系の参院選特番『選挙の日2022 私たちの明日』でのコメントが自重気味だったとして、後日ネット記事に『太田炎上せず 期待外れ』と書かれた話が、笑い話として放送された(注2)。
 メディアにおける太田光の役回りは、皆が暗黙の了解として触れないでいる問題をつつき、失礼な言葉や不謹慎な言葉を敢えて言うというトリックスター的なもので、一方から嫌われつつも他方からはその役回りを期待され、長年メディアに出続けられていることが、彼がストレンジャーではなくトリックスターであることを表している。
 『笑いと逸脱』に記載されたインタビューで、山口昌男は「道化っていうものは、普通であることからおりてる、おりさせられてる人間でしょ。だから普通の人がコミットしている論理に忠実である必要は全然ない、故に、普通の人が当たり前だと思っていることを当たり前でないと指摘することもできるわけです。」(注3)と語っている。ここでいう「道化」はトリックスターとイコールで、日本では「お笑い芸人」が最も親しまれる道化の存在である。太田光が皆のもつ暗黙の了解や、秩序を揺さぶることができるのは、「お笑い芸人」という肩書きを持ち、笑われる立場、すなわち論理に忠実であることから逸脱しているという前提をもつ立場であることが、ひとつ大きな条件になっていると考える。
 そして「お笑い」という場は、観客からすれば「(笑えさえすれば)常識や道徳に反した行いを許容して鑑賞できる」ものであり、芸人にとって舞台は「本来であれば『外側に向けて拡大された内部世界』である『世間』を、自分と線引きして対象化し、『ウケ』を誘う場」である。その時代や場が持つ空気を読み、常識とのズレ(ボケ)を生んで、コンビの場合は相方に突っ込ませ、ピンの場合は客体自体に突っ込ませる。この時、ある種の納得があれば笑いが起こり、ツッコミがズレればシラケる。トリックスターとなるか、ストレンジャーとなるかの境目である。
 この舞台というフィクションの場の中で、安全にショックを受け、それが笑いに転換されるのが「お笑い」であり、そこでストレンジャーではなくトリックスターになるためには、ノンフィクションな時代や場のもつ空気を実に丁寧に読まなくてはならない。
 トリックスターは、いたずらをする奔放な存在であるようで、実に倫理やその時代の制御されている秩序に敏感でなくてはならないのだ。


  1.  山口昌男 『笑いと逸脱』筑摩書房、 1984年、68頁。

  2. TBSラジオ 『爆笑カーボーイ』2022年7月12日放送回 太田光の冒頭語りより

  3.  山口昌男 『笑いと逸脱』筑摩書房、 1984年、69頁。

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