安藤元雄 「『悪の華』を読む」を読む
ボードレールの名前を初めて知ったのはいつだっただろう?中学二年生か三年生の頃、中原中也や萩原朔太郎を通しての「発見」だったか。
三好達治訳の『パリの憂鬱』は愛読したし、詩の雑誌「びーぐる」仲間の山田兼士さんのボードレール研究を読ませていただいたこともあったが、実際のところ、『悪の華』の詩そのものはほとんど素通りしていたーーということに本書を読んで初めて気がついた。
『悪の華』のボードレールって、中也そっくりじゃないか、というのが読後の率直な感想である。もちろん本当はその反対なのだけれど、この詩集を論ずることによって浮かび上がってくる母親との関係だとか、その裏返しとしての「子供」性だとか、女との付き合い方だとが、いちいち中也を想起させるのだ。
いや、そういう俗人的な話じゃなく、詩作品そのもの、そのさらに奥底に横たわる詩学の方はどうなのかと問われれば、第7章「アレゴリーの詩法」が圧巻だ。
彼がその詩的探求の狙いとしていたのは、アレゴリーで眼前の現実を説明することではなく、アレゴリーを眼前の現実よりも遥かに射程距離の長い認識として提示し、それによって眼前の現実に風穴をあけることであった。のちの象徴主義の書法が、おそらくここから紡ぎ出される。(p183)
ここにも中也の「幻視」に通じる何かがあると思う。そしてその「何か」は中也を通して、現在の自分にも関わってくるのではないか。読んでいてなにやらムズムズするのである。未だ描いたことのない新しい詩集のあり方の、それこそ幻が頭の奥にチラチラと瞬くのだ。悩ましい夏の夜の読書である。