トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第五回
四元さん、
お返事ありがとうございます。
今回も色々考えさせられます。まずは、「頭で書くタイプ」の詩人について(笑)。四元さんの仰ったように、定型詩においてはそれは褒め言葉ではないですよね。俳句よりも短歌の方が嫌われるかもしれません。よく歌会などの批評で、歌のダメだしする時に、「これは観念的だ」とか、「頭で作っている」という決め台詞があります。そういう言葉が出るたびに、「また出たよ」と思ってしまうんです。それが良い歌であるかはまた別問題として、「ではなぜ観念的だったらダメなんですか?」と聞いたら多分誰も答えられない(笑)。
でも、自由詩においてもその傾向があるというのは少し驚きですね。四元さんの詩は、僕から見れば、本物の「詩」に他ならないからです。そもそも僕が四元さんの詩を知ったのは、十年前?くらいですか、朝日新聞の夕刊で拝見してからです。何という詩だったかは忘れてしまったのですが、多分、詩集『妻の右舷」が出たあとくらいでしょうか?日本にもこんな詩人がいるのか、と驚いて感動したわけです。(本人を前にして何なんですが)実を言えば、現代詩を読んでいて、ピンとくる人は割と少なかったりするんですね。それは現代短歌や俳句でもそうなんですが。そう言えば、一年前ぐらいに、四元さんが現代詩壇の中ではメインストリームではないと仰ってましたよね。僕自身ももちろん、詩歌の世界では傍流も傍流なわけですが。なぜ「機智」や「奇想」は詩歌界では冷遇されるのか?(笑)
ひとつ思うのは、多分、短歌の世界で幅を利かせている感覚が、現代詩の中でもあるのでしょう。その感覚とは、僕が密かに名付けている「共感したい病」です。つまり、他人の短歌や詩を読んで評価する際に「自分が共感できるかどうか」という事を無意識に最も大きな判断基準にしている人が多いのではないか?ということなのです(ヤバ、だんだん黒三宅が出てきたりして。ルサンチマンではないので)。
個人的に言えば、僕は他人の短歌を読んで共感したい、と思った事はあまりありません。どちらかというと、なんかちょっと分からないところはあるけど凄く惹かれる、そんな歌に出会いたいと思って歌会とか出てましたね。だいたい、貴重な時間使って、わざわざ電車に乗って歌会に出席して、自分の中に既にある感覚を他人の歌で再確認する、という事に何の意味があるのか?(笑)つまり、「人生あるある」を探して、どうだと言うのか。もちろん他人の歌に共感する事もあるし、すごい歌だってあるに違いない。しかし、そういう事ではないんですね。僕は例えば、「三宅さんの歌、良かった!凄く共感しました!」なんて言われたら少し引いちゃいますね(笑)。「るせー。お前にわかるわけないだろ」とか(しかし嫌な奴だねー。笑)。どちらかというと、「三宅さんの歌、なんかわからないけど面白かった!」と言われる方が嬉しいですね。「おう、そうかい、じゃあ、ビールでも一杯いく?」なんてね。
四元さんは映画に詳しいみたいで、今回もミュンヘン映画祭をレポートされてますよね。例えば映画で考えたときに、どういう映画を最も評価するのか?共感できる映画はいっぱいあるし、それこそ僕だって涙もろい方だから共感して泣く事だってある。でもそれが果たして一番良い映画なのだろうか?攻めているというか、表現の冒険に取り組んでいる映画でしかも面白い(funnyではなくinteresting)映画、それがやっぱり最高に評価したい映画だと自分では思うんですね。なぜか、というと、大げさに言えば、僕らは表現者だから。
表現者って何だろう?ちょっと話は飛ぶのですが、最近読んだ本で面白い本がありました。探検家の角幡唯介さんの『新・冒険論』と言う本です。この人の本は面白いので前から読んでいるのですが、要はこの本の中で、「冒険って何だ?その定義は?」と言う事を語っているわけです。つまり本来の冒険とは、我々の住んでいるシステム、常識の外に飛び出す行為の事であり、そこにこそ自由がある、と言う考えですね。
少し引用しますと、
冒険とはシステムの外に飛び出す事で、システムの内部を外から客観的に見つめて、その限界を明らかにする批評的性格を持った身体表現である。一言でいえば、ほかの人間に対して自分だけが飛び出す、自分だけが先に行くという行為だ。自分だけ外に飛び出すことによって、冒険者は「私は飛び出したけど、その飛び出した私について、あなたはどう思う?そして飛び出さない自分たちについては何を思う?」と、飛び出さない者たちに対して挑発的な問いかけを発しているのだ。こうした行動に出る者に、飛び出さない他者たちに対する視点がないわけがない。
ここで、冒険者という言葉を表現者に変えても全く同じ事が言えると思うんですね。つまり、表現者にとってのシステムとは、「共感」というキーワードで結ばれている一つの閉じられた村みたいなものですね。そこから出ようとするものは、白眼視される(笑)。もしくは、「どや顔しやがって」とか「中二病」とか訳の分からない言葉を投げつけられるわけです。表現者なんだから、「どや顔」ぐらいさせろよ、とも思うんですが。
システムというのは割と強固で、例えば、「いや、そんな事ないよ、若い人はそんな事ないよ」という人もいるかもしれないけど、僕の見るところ、年配者とは使う「文法」というか、「言葉感覚」が違っているだけで、若い人のシステムはやはり「共感できるかどうか」によって閉じられているような気がするんです。年配者と議論するときは、その「言葉感覚」が議論になるだけで、割とその前提条件までには行っていないような気がします。
さて、前回取り上げた、大岡さんの『うたげと孤心』にもう一度立ち返らせてください。大岡さんの、近代短歌の捉え方いうものは以下の通りだったと思います。引用しますと、
和歌が近代短歌として再生するためには、一般性ではなくて特殊性へ、普遍的情趣ではなくて個人的述志へ、連歌的拡大ではなくて一首独立の凝縮へ、機智にみちびかれた遠心性ではなくて調べに集中する求心性へと、飛躍的な転換をとげることが必要だったし、事実それがなされた事によって、それ以後の近代短歌の歴史が始まったのだった。それが全体としておそろしく生真面目な性質を短歌にもたらしたということは、ごく当然の成行きだったのである。
大岡さんは近代短歌の成立のあり方に理解を示しながらも、しかし手放しで認めているわけではないんですよね。確かに、茂吉や、赤彦らのアララギによる、古今や新古今ではなく、万葉集から文学的滋養を取り戻そうという文学運動はラディカルだったわけですが、しかしせっかく万葉集にあったはずの何かを取りこぼしていた、という事だと思うんです。つまり万葉集というものの把握の仕方が大岡さんとアララギとは違うわけですね(ちなみに茂吉についていえば、近代短歌をはみ出す部分が多いので僕は個人的には大好きなのですが。ジャズ・音楽評論家の中山康樹さんがかつて、「ジャズはそんなに好きではないがマイルスデイビスは好きだ」というような事を言ってたと思いますが、それに倣っていえば、「近代短歌はそんなに好きではないし、多くの場合、退屈であるが、齋藤茂吉は好きである」という事になりそうです)。
大岡さんは、近代短歌が、「『万葉集』にふんだんにみられる笑いや遊戯の要素をあえて認めようとしない」として排除したことを指摘していますよね。逆に大岡さんは、「うたげ」に必要な集団の歌、ここにこそ『万葉』の豐かな土壌があるとしたわけです。
そもそも、そうした「笑いや遊戯」の要素というものは、和歌の中から平安時代のアリストクラシーの成立以来、徐々に排除されて行ったのではないでしょうか。笑いは批評性と客観性を持っているから何でも相対化してしまいますよね。平安貴族や天皇自身が自らを相対化しちゃったら権力を保持できませんよね。「俺が王様でいいのかなー?」とかね(笑)。権力は反省しない。
そんな中で出てきた連句や俳諧が、江戸時代に庶民によって流行った事は、ある意味、そうした機智や滑稽味による「座の文学」によって「うたげ」のパワーを取り戻す運動の側面もあったのかもしれません。
戦後の前衛短歌は近代短歌を否定する側面があったわけですが、しかし、アララギによる『万葉集』の把握に対するアンチテーゼであった事を考えると、それが即、『万葉』からアララギが取りこぼしたものを拾っていくという事には繋がらないですよね。
実際、塚本邦雄が、「笑い」の方面への短歌での未実践についてどこかで言っていたような気がします。
現代の短歌や若い人の短歌が、大岡さんが近代短歌について指摘した事、「普遍的情趣ではなくて個人的述志」によるものである事に関しては、その表現方法は多種多様であるけれども、脈々と受け継がれているような気がします。
大岡さんには批判されましたが、しかし近代短歌人が、『万葉』の中から自分たちに必要な滋養が何かという事を把握していましたし、前衛短歌人も、自分が何をしたいのか、という事は把握していましたよね。大事なのは「自分の創作は詩歌の表現史の中で何を意味するのか」という把握だと思うんです。それが人任せでシステム内に適応する事だけであったとしたら、角幡さんが、現代のエベレスト登山が、ルート工作も荷物運びも全て人任せの単なるスポーツ・クライミングであり、それが決して冒険ではないと喝破したように、詩歌は表現に至らないのではないか、と思うんです。
そんな中で、四元さんから若い詩人の中で連詩が流行っていると聞きました。一行ごとの連詩の試みもあるそうですね。そうした動きというのは、大げさにいえば、「うたげ」や「座の文学」の復興の試みとも言えるのではないでしょうか。自由詩の中からそういう動きがあるのは非常に面白いと思います。ある種の逆転現象というか。もちろん、連句を試みる俳人や歌人もいるでしょうが、実質的に頻繁に行われる歌会や句会は、「個人的述志」を発表する場であるし、やはり、座のメンバーで有機的に動いていく詩や歌ではないですよね。
そういうわけで、「機智」や「笑い」による「うたげ」を取り戻すこと、(それは巷でいう「おもしろ短歌」とか「ユーモア短歌」のレベルではないんですが)これこそ脱・システム行為なのかもしれません。そういう観点からこのトルコ連詩を見ると、改めてその意義が浮かび上がるのかもしれません。
次に、四元さんが仰った感想、トルコ詩人の詩が古今的な短歌風、僕らの詩が嘱目的な俳句風だった、というのはまさにそう思います。連詩における波動は短歌的接続、粒子は俳句的な切断というのも面白いなあ。そういう意味では今回の連詩では、トルコ人が波動を担当し僕らが粒子を担当していたのかもしれません。
トルコから帰ってきてから、詩や短歌を作ってますか?という四元さんのご質問ですが、実は休火山状態です(火山ほどパワーがあるのかい?と突っ込まれそうですが)。
でも、ぺリンさんの詩と俳句を、エスラーさんと訳しましたよね。あれで、ますますぺリンさんの抒情性を再確認することになりました。
Sur les eaux urbaines
Une révolution de mouettes
Les ailes en feu
都市の水辺の
鴎たちの暴動
燃えている翼
(三宅・エスラー訳)
季語はなんだとか、五七五はどうした?という話は別にして、ぺリンさんの俳句はどこか短歌的でもありますよね。そこが特徴かな、と思っています。
(ペリン)
ところで、イスタンブールの朗読会の後、皆で居酒屋風カフェに行きましたよね。で、ある目つきの鋭いごっつい(少し怖そうな)トルコ詩人に聞かれたんですが、「お前はクラシカルな定型詩を作るそうだが、日本でもクラシカルな詩人は大抵はナショナリストか?」という質問でした。なるほど、そう言われてみれば、もちろん歌人や俳人にはそういう人も中にはいますよね。でも実際は批評会においてはあまりそういうことは論じられないかもしれません。つまり政治的なことです。
(打ち上げの居酒屋で)
イスタンブールの詩人たちはやはり政治的な立場ははっきりしてますよね。つまり、反エルドアン。今回、6月に大統領選がありましたが、その結果、皆落胆してますね。実は、連詩の中で、「紙魚」の詩を書きましたが、あれは、ダムの浮島?での連詩会場からホテルにボートで帰る途中、エフェさんとトルコの政治について語ったことからインスピレーションをもらったのでした。
今回、トルコの詩人たちはあまり政治的な事はぶっこんできませんでしたね。その居酒屋カフェで、怖い顔の詩人も英語の詩を見せてくれたんですが、それは美しい詩なんです。もう一人、別の詩祭から駆けつけてくれたトルコ詩人の英訳詩も素晴らしかったな。
つまり、僕らと連詩セッションしてくれたトルコ詩人も飲み会に参加してくれた詩人も素晴らしく美しい叙情詩を書くんです。やっぱり政治の詩も書くのかな?
トルコ滞在中、連詩について取材を受けた時(その件については四元さんがファルスとして小説に書くかもしれない、と言っていたので 笑、割愛しますが)、ニハットさんがお膳立てして、どこかの市長さんと(どこでしたっけ?四元さんみたいにメモ魔じゃないので忘れてしまったのですが)、高級トルコ料理の昼ごはんを一緒に食べましたよね。それで、その後にその偉い方々や一般聴衆の方の前で、我々の連詩を古い世界的な遺跡の中で朗読するという話だったんですよね。
(遺跡で市長と記者会見)
僕は、トルコで政治的な事がどれくらいタブーかわからなかったので、連詩の中の僕が書いた、「シリアへの爆弾」の話とか、当局を少しおちょくったような詩を読んで大丈夫か?と小声で、昼食会の隣の席のぺリンさんに聞いたら「全然OK!あなたの詩よりニハットのエロティックな詩の方が問題かもね」なんて言ってました。そうか、トルコでは政治より性がタブーなんだな、と思いましたけど。(だけど、エルドアン大統領が再選した時、ドイツの芸人がエルドアンをおちょくった詩を発表して国際問題にまで発展しましたよね。やっぱりタブーなのかな?)
唐突ですが、笑、ゴクチェさん、エフェさん、ニハットさんの詩を少し紹介します。
連詩の詩ではなく、トルコを去る前に、彼らから貰った詩集から。
まずはゴクチェさんの詩(英訳 ゴクチェさん)
Reality is Buzzing Like a Horsefly Between the Window and the Curtain
1- Autumn noon, a crow passing without a single cry
2- As if saying “another cup of tea” saying
“I would give my everything to write like you”
3- The grass grows, stone corrodes
particles circle around the nucleus with infinite impetus
4- Everything happens too slowly or too fast
5- So that it`s as if nothing happens
6- You say I already gave everything
7- Reality is buzzing like a horsefly
Between the window and the curtain
次にエフェさんの詩(英訳 Raman Mundair)
Looking at you
Upturning the turtle, little girl runs away
For the first time, turtle sees sky
(ゴクチェ、エフェと奥さん)
次にニハットさんの詩
yaradılış
Bütünü içinde tutan yaradılıştır
天地創造
まるごとを持っているのは天地創造だ。
(エスラー訳)
av
Her av başarısızdır!
狩猟
全ての狩猟は失敗する!
(三宅訳)
(謎の二ハット)
四元さん、では今回のトルコ連詩の総括をお願いいたします!(笑)
三宅勇介 7,7,2018 七夕の日に