見出し画像

トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第二回

三宅さん、

お手紙ありがとうございました。あれからちょうど一ヶ月ですね。まるでついさっきだったような。それでていてもう何年も前の出来事のような。

本当に夢のようでした。初日の発句ならぬ発詩で、ゴクチェが「手に手をとって小舟から湖に飛び込む」という一行を書いたら、その翌々日(でしたっけ?)ほとんど水没した建物の屋根の上から、本当にみんなで手を繋いで飛び込んだり。物静かでお淑やかなペリンや若いエルサまでが、決然と洋服を脱ぎ捨てて、お天道様に下着姿を晒したことにも驚くやら、感動するやら。巷では多くの女性がヒジャブで頭を覆っているというのに。

あんなに奔放な時間を過ごしながら、よく三日で四十篇もの詩を連ねることができたものだと今でも信じられない思いですが、読み返してみるとこれが全然悪くない。最初のラウンドの繋ぎ方(付け)なんて、堂に入っていてとても初めてだとは思えない。トルコ詩人、恐るべし。脱帽でした。

三宅さんが書かれている通り、「君たちはエゴが小さい、でも心はでっかい。我を張らず、他者を寛容に受け入れて、どんなものにも合わせてゆける。だから連詩に向いているんだ」みたいな言い方をしましたが、これは僕にとっては普遍的な詩人の理想像なんです。谷川俊太郎さんは、岩田宏さんの「プレヴェールは巨大な私性を持っていた」という言葉や、キーツの「カメレオン・ポエット」とか「Negative Capability」という考え方を引いて、詩における無私の大切さについてお話しになっていますが、それにも通じることだと思います。

もっとも普遍的とは言いながら、彼らにはどこか東洋的な親しみも感じますね。石の硬さに対する草の優しさ、虫の音を聴き分ける感受性のようなもの。西洋音楽の和音に対する、琵琶の弦の揺らぎ。通訳のエスラが、トルコ人はもともとこの土地にいたのではなくて、11世紀ごろ中央アジアから移動してきたのだと教えてくれましたが、トルコ人と日本人は思った以上に近しい存在なのかもしれません。とにかく寛いだ、居心地のいい一週間でした。

地図で見てみると、僕らのいたハルフェティという町、シリアとの国境までわずか数十キロのところなんですね。ホスト役を務めてくれた地元の詩人のニハットは、内戦で壊滅状態に陥ったアレッポの大学で博士号を取ったんですって。バスで二時間ほどだと言ってました。卒業した途端にドンパチが始まって、逃げるようにトルコへ戻ってきたとか。僕らが行く直前にもアメリカがシリアにミサイルを撃ち込んで、三宅さんはそのことを連詩の中で触れたりもしていましたね。僕らが味わったあの天国は、地獄と隣り合わせのものだったと今更思い知る次第。

三宅さん、行く前は結構治安を心配していたんですって?僕はゴクチェやエフェの現実感覚が信頼できると知っていたから、それほどではなかったのだけれど、もしも万が一物騒なことになっても、それはそれで仕方ないと腹を括っているところがありました。いのち短し恋せよ乙女、多少のリスクを冒しても、未知の世界に身を投じてみたいという気持ちの方が強かったんです。

最後の夜だったかな、ゴクチェが夕食の席で、「これから少し大切なことを話したい」とあらたまった前置きしてから、「僕らはいつか死ぬ」って語り始めたでしょう。「それがいつなのかは誰にも分からないけれど、僕らはみんな必ず死ぬ定めにある。その時が来た時、喜びをもって思い出せる瞬間を生きることが詩人の使命なのだ。この三日間は、自分にとってまさにそのような瞬間だった」というような意味のこと。

自分の気持ちを代弁されたようで、ちょっとびっくりしました。でもあの時、あの場にいた全員が「手に手を取って湖に飛び込んだ」一瞬を思い出していたでしょうね。そしてそういう特権的瞬間の共有こそ、僕らの先達の詩人たちが「うたげ」と呼んだものに他ならないと思うのです。

さて、そのような「うたげ」の強烈な磁場の中でこそ、それぞれの詩人の「孤心」が暴き出される、いわば「御里が知れる」というのが大岡信さんの「うたげと孤心」論の本質だと思うのですが、僕も含めて、参加詩人それぞれの個性は三宅さんの目にどう映りましたか?あるいは個々の特性を超えた「お国柄」というようなものをお感じになったりしたでしょうか。次の手紙ではそのあたりのご感想もお聞かせ願えると嬉しいです。

2018年6月10日 ミュンヘン

四元康祐

往復書簡第一便はこちらから:
https://note.mu/jpr/n/n66cbd658e21d



いいなと思ったら応援しよう!