母なるひとびと
今朝は、満ちたばかりの月が夜明けの西の空に金色に輝いていた。お昼間は天気が良かったが、夜はあいにくの曇り空で月を愛でられそうもない。
『母なる人々 ありのままのアイルランド』を読む。
”未知谷”という、老子の道を思わせる素敵な名前の出版社からでているこの本は、アイルランドの寒空、海、岸壁、そして草原に揺れる花と一匹の羊の写真カバーがついている。カバーの下は絹目のアイボリー、背表紙のところに”母なる人々 ありのままのアイルランド”と金色の文字が刻印されていて、冷たい風の吹くアイルランドの家屋に一冊置いてあっても、きっと気持ちよく馴染むことだろう、と思う。
古い北欧の記憶はどれも魅力的だったが、とくに三章「農場の女主人(ナナ)」で語られた光景は、思い浮かべてうっとりした気分になった。アイルランドではお祖母さんのことを”ナナ”と呼ぶそうで、著者のアリス・テイラー氏の語るナナの姿は、厳格ながらも、親しみ深く、頼りがいのある大きな存在といった風だった。
夜、ナナが着替えをする一場面が印象深かったのは、レースのケープにブラウス、スカートと幾重にも重ねられ、工夫された洋服の中に、まだ隠されたペチコートやコルセットが現れるときのうつくしさが、日本のきものの中に秘められた、肌襦袢や長襦袢のそれと通じるものを感じたからだった。
ベッドに入る前に順序正しく、おごそかに解かれていく衣服のやわらかさとそれらを整えるナナの姿は、単に着替えをしているのではなく、まるで一つの儀式を行なっているような感じさえ伝わってきた。
たとう紙のリボンを解いて、薄い紙の中から着物をするりと取り出すとき、私はいまだに特別な気分になる。長方形に畳まれた着物は、とても静かである。広げて羽織ると、それが直線ばかりでできているとは信じられないほどに体の曲線に添ってしっとり包み込んでくれる。
肌着、襦袢、着物、帯、と現代の洋服に比べると着るには複雑で、しかもそれで一日、家のことをしたり、外に出かけたりした後に、またそれらを干したり畳んだりするのにはやはり一苦労ある。けれど、その都度、世話を要求してくる着物をぱたりぱたりと畳んでいると、自然と、一日の終わりに騒がしくなった心は静まってゆく。
私に着物の畳み方を教えてくれたのは曾祖母だった。既にソファーやダイニングテーブルに囲まれたリビングの、家具の足の隙間、狭い床に膝をつき、幼い私に折り紙を教えるようにやさしく見せてくれた。狭いスペースに座り込み、広げた赤いつむぎの着物を言われた通り合わせていくと、大きくて複雑だと思っていた着物は魔法をかけられたように慎ましく、いつしか薄い長方形に畳まれるのに驚いた。それからしばらく着物は着ることがなかったので、私はすっかり畳み方を忘れていたが、今度は踊りのお稽古場で先生に畳み方を教えてもらい、そこでもやはり、曽祖母に教えられた時と同じように驚いたのだった。曾祖母の手も先生の手も、着物と全く馴染みあっていて、記憶の中のそれに、今でも思わず見惚れてしまう。
憶い出され、語られるアイルランドの光景に自分のことが呼び起こされる。東西の記憶に誘われて、私は今、ことしは長襦袢を一枚縫ってみたい、と思っている。