見出し画像

空転する教育論


 今回の文章の最後に、不掲載になった原稿を掲載しております。


[2019.10.21放送]教育改革という名の病~デフレスパイラル化する知性~(KBS京都ラジオ)/ゲスト:浜崎洋介

エーリッヒ・フロムの『悪について』腐敗の心理学〜人はどうやって「悪」に堕ちるのか(浜崎洋介×藤井聡) [2024 4 29放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ


 上記の動画で浜崎氏は「自分の生の領域に足を踏み入れられた時にだけブチギレる。そこでキレるのは人間として必要な倫理。」とご自身もおっしゃっています。生の領域に踏み込まれることが嫌なのは、誰しも同じことです。

 私に間違いがあったなら、それをそのまま指摘するべきであり、それを指摘せずに生に踏み込む必要は少しもなかったはずです。
 そして、私は氏から「摩擦とノイズ」を理由に大学進学を勧められましたが、私が大学へ行かなかったのは、動画で話されている意見と違わぬこと、つまり教育システムの腐敗や窮屈さを感じて、考えてのことでした。
 大学に勤める教師が、大学へ行くことの目的を、学問ではなく、対人関係の摩擦とノイズというようになった今、大学の目指すところはいったい何なのか。大学以外の場所にも、人にはそれぞれ、摩擦、ノイズ、いろいろな苦悩があります。「質が違う」と浜崎氏はおっしゃいましたが、大学の方が上質な摩擦があるとお思いなのでしょうか。それは単なる「違い」であって、そこに優劣などありません。

 大学の腐敗したシステムを語る大学教員がまず努めることは、そのシステムを破壊し、改革することではありませんか。それがあろうことか、腐敗したシステムを拒んだ私の方に「破壊」の矛先をむけ、その腐敗したシステムへ入れようとしていること、あるときはそのシステムを批判し、あるときはそのシステムに守られようとするその姿勢は滑稽でしかありません。

 「約束」を「問い」にかえる、他人の人生を拘束するような発言をする、踏み込んだ破壊をすることを「教育」と称して掲げられた論は、人に言葉への信頼を失わせ、ごく自然な人間関係をこわばらせ、生きていくことを混乱させます。
 間違った論はもちろん、どれだけ正しいと思える論であっても、それが現実の調和を生まず、むしろ問題をおこしているのならば、そんな論を持っていることになんの意味があるのでしょうか。

 たくさんのものごとが関わり合い、絡み合う現実の世界に、論を立ててしまうところに対立が生まれるのだ、ということが、このことを通して私が痛感したことの一つでした。現実の世界には、論で割り切れぬことのできぬ関わり合いや、つながり、あるいは言葉の上には聞き取れないところの振る舞いや様子というものがあり、それらは全て論にはならぬものです。各々の関係性において生まれるものです。
 論は、訪れる現実に対して、常に仮説でしかなく、そして、至らぬ分析にしかなり得ないのではないでしょうか。そうでなくとも、現実の前や後に立てられる論とは、それくらい不完全なものであるということを、私は認識していたいと思います。

 
 前回の書いた記事に引用した動画、子育て論で多く語られた「ギブ アンド テイク」。
 子育ては本当にギブ アンド テイクですか。その言葉を使うことは正しいのでしょうか。子育てや、教育というものは、「ギブ アンド テイク」などの、how to や論から始まるものではなく、論では分けきれない、どんな言葉も虚しく思えるほどの「無垢の愛」、そこに自分もその子もともに包まれているというころから始まるものだと私は思います。

 私には、ギブ アンド テイクの考え方が、世間に交換や損得による苦しみを与えているのではないかと思えてなりません。芸能界でも、政治界でも、どこでもそうです。ラジオで喋っているお話の中に出てくる両親(自分たちが思うような選択をさせるために、子供に何か引き換えの条件を与える)もそうです。子どもが、何か苦しみを得ることによって、それと引き換えに、安心を得ることができたり、地位を得ることができたりするというのが、これまでの教育でなされてきたのではないですか。世の中の縮図ここにあり、です。塾での宿題の例もお話しされていましたが、それは子どもをうまく支配するためのやり方です。

 与えられた苦しみや義務と交換に何か報酬を得る、ギブ アンド テイク。
 たしかに社会はそうなっているかもしれません。が、その社会は健全なのか、そこに適合することが、子どもだけでなく私たちにとって、何か良い影響を与えてきたのでしょうか。結果は全て、この社会や、一人ひとりの苦悩に現れているのではないでしょうか。ギブアンドテイクのその考え方が、世のずるさや不健全を推進する一助になっていることの危険をこそ、私は感じます。
 人間が生きていく上で、最も身近にある、最も温かな場所であるべきはずの家庭での子育てについて、純粋に愛しているというところから話が始まらずに、「ギブ アンド テイク」から話が進められることに、違和感を覚えます。
 取引や交換などとしては捉えられないほどに、家族は一つになっているはずです。が、もし、両親が「ギブ アンド テイク」の考え方を持っていたならば、そこに齟齬が生じることは容易に想像しうることです。なぜなら、そんなことを思っているのは大人だけであって、子はちっともそのようなことを考えてはいないし、無垢な愛の中に両親とともに抱かれているに過ぎないからです。

 子という立場を親から(もっと根源を辿れば、大きな運命の力によって)与えられて、そうして自分が親になることさえ、生まれてくる子によって与えてもらうのであれば、一体これ以上、他人に何を要求できるのでしょう。
 感謝も、愛も、全ては自然に起こるものであり、もしわたしたちが何かを教育することができるとすれば、それは「自分」以外にはない、と私は思っています。一体人間が、人間を教育できるほどに偉くなれるものでしょうか。むろん、教師や教育に携わる人たちが不必要とは思いませんが、「教育」というその名前や立場に惑わされてしまったとき、その人の成長も、子供たちの成長も同時に止まってしまうのではないでしょうか。

 教育を離れて、ただ一人、自分の生きたい方向や学びたいことに思いを寄せたとき、決まりきった教育の中に閉じ込められて、知らないうちに切り捨ててきたものの多さに気がつきます。

 自己を研鑽し、楽しみ、そして自分の持っているものを惜しみなく分けて行ける人こそ、他人であるところの私たちにとって師ともなり得ます。必要な教育はあるはずです。良い教育者も必要かもしれません。けれど、教育が、人間と人間の関わりを無視してその正しさを主張すると、それは教育だけでなく、生きた現実にとって良くない結果をもたらすことがある、ということ。まずは論を挟まずに捉えられた現実、その全体性のもとにこそ、教育は良い役割を果たして行けるのではないかと思います。

 以下、表現者クライテリオンで不掲載になった原稿を添付します。
 繰り返しになりますが、決してクライテリオンに対する批判や、不掲載を不服としているわけではありません。それらの起点となった、浜崎氏の教育とその論について、批判しています。初稿ですので、誤植もありますが、訂正せずにそのまま掲載いたします。



いいなと思ったら応援しよう!