雨
一年前、京都芸術大学の公開講座に通っていたころ、上方舞の山村友五郎さんがこんな話をされた。
「インドで、インド舞踊とコラボをしたとき、おもしろいことが色々あって。たとえば、インドでは雨が降ったときの踊りが日本とは全然違う。日本ではこういうふうに袖で(と着物の袖口をつまんで身振りしながら)雨を避けるんですが、インドではこんなふうにして(とインド舞踊の映像を指して)手をいっぱいに広げて喜びを表すんです。インドは砂埃も凄くて、暑いところなので、こうして雨が降ることを喜ぶんですね。」
私は、インドの民族音楽に日本舞踊がコラボレーションしている映像を見ながら、同じ「雨」でも風土が違えば、こんなにも違った受けとめ方になるのか、と自然に委ねられた人々の感じ方の違いを面白く聴いた。
日本舞踊の雨の表現、たとえば雨を袖でよけるときの、やや身をかがめつつ、いそいそとゆく感じや、手ぬぐいで頭を覆っている姿、あるいは相合傘など、雨の表現には、どこかつかまれるものがある。雨のひと場面は、人々が大切な何かを流されまい、と身を屈めたり、寄せあったりしている、そんなふうに見える。
日本には「雨」一つとっても、大雨、小雨、時雨、村雨、甘雨、など、幾つもの「雨」がある。インドのような喜び方、天が生命の必要を満たしてくれた時の感謝や感激とはまた違った、日本人なりの趣、心の昂りの様子を、その膨大な数の言葉が示しているような気がする。
「あ、雨降ってる。」
母が言って、レースのカーテンを開けると、秋雨というには風情なく、夏の夕立というにはやや弱い、夏とも秋ともつかない雨が降っていた。
九月半ばの三連休。未だ回り続けている扇風機の音で、雨の降りはじめ、窓に滴がぽつぽつと当たって、やがて一斉に降り始める、そのたのしい音の移ろいを聞き損ねたのが少し残念だったが、ここのところ雨のない日が続いていたので、私は、母が作ってくれた卵のアイスクリームを食べながら、嬉しくベランダの外を眺めた。
時々の雨に、体いっぱいで喜びを表現する代わりに、私たちの祖先は、雨音にじっと耳を澄ませ、その静寂に響く雫の音を、たくさんの言葉の響きに変えて表したのかもしれない。