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「お父さんお風呂に閉じ込められる」の巻
先日、父がお風呂に閉じ込められた。ドアノブを引っ張っても、回しても、ドアを強く叩いても、物差しでどうにかしてみても、扉はてんで開かなくなってしまった。
管理会社に連絡しても埒があかなかったので、私たちは渋々、救助隊を呼ぶことにした。命に別状はないことだから、さらりと来てくれるだろうと思っていたら、ほどなく、家の近くの消防署から、大きなサイレンの音が聞こえ始めた。
え?!と思っているうち、さらに橋の向こうからもサイレンの音が聞こえ始め、そして、私たちの住むマンションの前で二つの消防車がピタリと止まった。
大きな靴音がドコドコと聞こえてきた。とたん、インターホンの音が鳴る。
扉を開けると同時に、オレンジの救助服にヘルメット姿の頑丈な男たちが「大丈夫ですか」と大勢でやってきた。
そして母が事情を話すや否や、救助隊は早々と父の救助に取り掛かった。瞬く間に脱衣所は「現場」へと変わり、ヘルメットを被った屈強な救助隊員達でひしめき合っている。
父が閉じ込められるその前にお風呂に浸かっていた母も、そして父の後にお風呂に浸かろうと思っていた私も、この光景を目にして思ったことはたった一つである。
「あぁ、閉じ込められたのが私じゃなくて、お父さんで本当によかった。もし私だったら...」
屈強な男たちが、お風呂場に閉じ込められた素っ裸の私を救うために、出動の準備をする。お湯に浸かっている私のもとにもサイレンの音が聞こえてくる。安否の確認。近所の人たちが心配して集まって来る。
私は自分の身の上に起きた惨めな不運を悲しんでお湯の中でシクシク泣くだろうか。それとも、恥ずかしさにお湯の中に沈んでしまいたい気持ちになるだろうか。
いいえ、実際の私はそんな妄想に当てはまるようなやわな女ではない。
騒動の中、お湯の中で私は一人、ぼんやりと「世界とはなんだろう」と考える、まるで少女的なところのない、面倒臭い女だ。
外の世界では何やら自分を救うために、一生懸命作業が進められている。私以外はみんな外の世界にいて、救助の様子や目まぐるしい変化を共有しているのだろうが、私にはそれらの様子はいっさい見えていない。見えていないそこに、果たしてなにが存在するのだろうか。私にとって確かなことは、お湯につかっているということ、そして変わり映えのないこの景色から、今は出ることができない、ということだけなのだ。こんなに近くにみんながいるのに、私は一人である。「みんな同じ世界にいる」と、誰が断言できるだろう。お風呂の中で、私が踊りを踊っていても、外の世界では、きっとみんな心配な顔をしているに違いないのだ。私は全然違うところにいる。いま、お風呂は壮大な宇宙の不思議と化した。
と、いつもの空想を繰り広げているうちに、救助隊の若い隊員が、「指揮」と書かれたチョッキを着ている隊員に向かって「ベンケイいりますか?」と、張り切って尋ねた。ベンケイ…?矢が突き刺さっても倒れることなく、立ったまま死んだというあの弁慶…?
弁慶の異名を持つ道具に、私と母は何が来るのかと息を呑んだ。弁慶がやって来る。おそらく、20年来付き合った古い扉とも、これが最後だ。「bath」とかかれた可愛いひよこのシールは、このマンションに引っ越してきたとき、母が貼ったものだが、これからは、その可愛いシールを横目に入るお風呂ではなくなる。二、三週間後に新しい扉が、いかにも現代風のスマートな顔をして我が家にやって来るのだろう。時はうつろう。
そしていよいよ、弁慶が登場した。が、しかし、どこに着目してそれが弁慶と言われているのか、私にはまったくわからなかった。わからないことが残念でさえあった。けれども、弁慶である。きっと、すごい技を繰り出すに違いない。扉のそばにいる救助隊が、弁慶を受け取り、いよいよ扉に弁慶を当てた。大勢の救助隊、母、私、みんなが扉の一点に目を注いだ。
弁慶を受け取った隊員が、ガタガタと弁慶を扉に設置しようとしている。
ガタガタ、
ガッガタ、
ガツ、ガツン
「……。あかん、この扉に弁慶のサイズ合えへんわ。」
一点に弁慶を見つめていた私の飲みかけの固唾は、その一言にむせ返った。そして皆、落胆の声を漏らした。
弁慶は、何者だったのか。それは迷宮入りとなってしまった。お風呂場の扉にガツガツ当てられただけで、なんの活躍も見せることができなかった弁慶を、若い救助隊員は「すいません」と、はにかみながら走って持って帰っていった。
お湯に使ってホワホワになった裸の父が救助されたのは、それから30分ほど経って後だった。古い扉は、思いがけず手強かったらしい。父はお風呂にいるだけで、別段体調が悪くなっていたわけでもなかったから、救助隊はなるべく扉を壊さないようにと配慮してくれたのだった。それでもドアノブが馬鹿になっていたから、結局は扉を壊すことになり、今週、我が家のお風呂の扉は折れ戸に変わるという。
救助隊の人にしてみれば、面倒な仕事の一つに違いないだろうけれど、その仕事ぶりを間近で見れたことに、私の心は躍ってしまった。そして、そう滅多にないことが起こったその意味について、考えずにはいられなかった。(このところタロットカードでの占いを楽しんでいる私にとって、この出来事は一枚のカードのように思えたのだった。)
「もしも、どこかに、あるいは何かしらの状況に、閉じ込められてしまうようなことがあっても、私を閉じ込めているその扉を壊して、助けに来てくれる人たちがいる。それも、扉の破壊は最小限にとどめて。時にはそういう人々の力を借りることも必要で、しかし、それは自分が呼ばなければ来てくれない、誰も気づいてはくれない。」
大きな声で「たすけて」と叫べば、助けに来てくれる人たちがいる。そして、そうしなければ打破できないこともある、ということ。なににつけ、一人でこなしたいばかりに、助けを求めることを恥ずかしがる私にとっては最大の教訓が与えられたのだった。神様が、我が家のお風呂場に託してくれた、面白くも一生忘れないであろう大切な教訓だった。
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消防車や救急車に積載されている、緊急時の強制進入工具の商品名。七つの機能を持つところから“弁慶の七つ道具”の連想で命名されたとか。(「コトバンク」より)