写真・旅の収奪性について
Twitterをスクロールしていると、このツイートが目に入ってきた。
https://twitter.com/asahara1966/status/1594758407235334144?s=12&t=0S-Elj53Yto7ROO4nLpKjg
あんまりヨシダナギという写真家について知らないので撮影者の考えは推測できない。
仮にこれが本当であるとしたら残念だけれども、ただ写真や旅の特性を考えるとまああり得る話と思ってしまう。
山のように写真を撮って、さまざまな場所を旅していると、写真も旅も気をつけなければ簡単にオリエンタリズム的な視点にハマってしまうと、自戒を込めていつも思う。
人の目につく写真を手っ取り早く作るには、まず「異」を見せつけることがあると思う。
普通の人の生活圏から離れた景色であれば、人の関心や驚き、違和感を惹きつけやすい。
この「離れた」というのは必ずしも物理的距離を意味するものではなくて、日常の中であっても普段と違う視点で切り取ることも含まれる。
例えば、石川直樹はそれを簡単に人が踏み入れないヒマラヤなどの高山で行っているが、小宮山峻はグラフィカルな世界を作ることで行っていることが多い。(二人とも尊敬する写真家の一人です。)
https://www.instagram.com/straightree8848/
https://www.instagram.com/shun_komiyama/
ヨシダナギの写真をざっと見たところ、彼女はそれを少数民族に焦点を絞って行っているように見える。
ただ引っかかるのが、その切り取られている少数民族の姿は日々の彼らの暮らしの中のものではなく、ポージングや人々の配置も設定された写真に見えること。
加えて、彼らの表情に着目しているというよりは、全身をフレーム内に入れ彼らの装い・フェイスペイント等に目を向けさせようとする意図を感じることだ。
彼らの立っている場所には家などの建物はなく、比較的情報量の少ない自然であることからも、そういった意図が読み取れる。
極端に言ってしまえば、彼らのその装いが日常的なものなのか祭事の時にしか着ないものなのか、判断する術は見る側にない。
もっといえば、本当に彼らが生活の中でそう言った姿をしているのかも分からない。
何が言いたいのかというと、私たち写真を見る側の人たちが「こうあってほしい」という姿に沿ったアフリカなどの人たちの姿を、忠実に再現している写真のように思える。
そういった写真は、異なるものに対する人々の固定観念を強化する危険性を孕んでいる。
写真はたった一瞬を記録するものなのにも関わらず、あたかもそれを客観的で普遍的な現実として提示することができるからだ。
芸術的に評価される写真家よりもSNSでバズった写真家の方が注目されやすい現在、彼女の写真スタイルを一概に弾劾することはできない。
なぜならそれが構造的に人の目を集めやすい社会になっているからである。
ただし人の姿を切り取り、そこから発生するメッセージを権威的に発信しうる写真家は、写真の持つその影響力について自覚的にならなければならない。
なぜなら写真は被写体の一部を「全部」として拡散する力を持っているからだ。
それは被写体に対する理解を促進する場合もあれば、被写体に対する偏見を強化する場合もある。
最初のツイートに含まれていた、人を「レア度」と言った尺度で測る表現は、そう言った写真の負の側面を十分に意識していなれば簡単に起こりうるものだと思う。
広く評価されている写真家であるのならば、そういった側面についてもっと深く考える必要があるのではないだろうか。
今回は写真の負の側面について中心的に述べたが、旅にも同じような側面がある。
「異」を覗くという行為は、暴力的な収奪になりうるし、植民地主義的・オリエンタリズム的な行動に陥る危険性がある。
僕が写真や旅でそういった視点を持っていないかと聞かれれば、正直自信は全くない。
だからこそ旅が終わるたびに、毎回そういったことについて深く考えてしまう。
ただ、その考える時間を放棄してしまったら、もう僕には写真を撮る資格もないし、旅をする資格もないと思う。
自信を持って断言できるのはそれだけだ。