神の社会実験・第15章
母は確かに、と小声で呟いたが、諦めなかった。
「それならせめて、息子が置かれる環境を見せていただけませんか。息子が暮らすことになる家がちゃんとしたもので、食事なんかもちゃんとしたものが出される事が分かれば、私もひとまず安心して息子を預ける事ができます。できれば、島の人たちのお話も聞かせていただければ、尚安心です。」
院長先生は、ごもっとも、という様に小首を傾げ、しかしこう続けた。
「誠に申し訳ありませんが、選ばれていない者達をここから先に通すことはできません。私個人の考えとしては、貴方方なら盗撮やテロを起こす危険もないでしょうし、お見せしても後で記憶を書き換えればいいだけの話ですから結構だと思いますが、これは神の思し召しですから天使たちが納得しないでしょう。
でも、島の住民をここに呼ぶことはできます。そして、息子さんが口にすることになる、食べ物を持ってこさせることも、できます。この島でのサービスや品物は全て無料と言いましたが、それは、あくまでもここに住んで、その存在でこの島に貢献している者に対してです。ですが、息子さんと言う逸材を預けて下さるのに必要な経費となれば、投資といたします。ハーブティーと同様、対価は生じませんので、ご安心を。」
さすがに悪魔、脅すのも上手ければ、煽てるのも巧みだ。先生は僕の事を何も知らないのだから、逸材だなんて根拠のないヨイショだと分かっていても、僕は不覚ながら胸の奥にこそばゆい誇らしさを感じていた。きっと父と母も、自分たちの息子を逸材などと呼ばれて悪い気はしないだろう。そんな僕らを満足げに眺め、院長先生は続けた。
「それでは、出前を取りましょう。息子さん、何がお好きですか。何でも食べたいものを一品だけお取り寄せします。さあ、ご遠慮なく。」
そう言われたとたん、なんだか空腹を覚えてきた。もう夕食は済ませたはずなのに。これも悪魔の仕業なのだろうか?それとも、そんなに時間が経ったのだろうか。どちらにしろ、その時僕は、どうしても脳裏をよぎり、またよぎるその魚を無視することができなかった。僕は、本当にいいのだろうか、と両親を伺いながら、遠慮がちに言った。
「ほ、本当に対価は生じないのですね?」
先生はにっこりとほほ笑み、優しく答えてくれた。
「本当ですとも。悪魔に二言はありません。」
「それでは…鰻重をお願いします。」
どうせ、ダメだろうな。でも、ダメならダメで、早くここから帰ることができるかも、などと考えていると、意外にも即答が返ってきた。
「畏まりました。」
そう言って院長先生は、驚く僕らを気にもせずドアを振り返り、いつの間にかそこにいた若い天使に何やら言いつけた。天使は黙って下がり、すぐにまた戻ってきて先生に何か耳打ちしていった。
「すぐ出来るそうです。待っている間に、また、音楽でもかけましょうか?それとも、他に質問などございますか?」
音楽をかけることに対しては、僕らは一斉に首を横に振った。少しばかりの沈黙の後、僕は自分が話を聞く前に書き留めた質問を思い出した。
「院長先生、ここではお金はどんな形でも通用しないのですよね?だとすると、どうして僕らを乗せてきたフェリーの運転手は、料金を受け取ったのですか?」
「それは、外の世界と直接係わる立場だからです。外の世界ではお金が絶対の信用を持っていますから、僅かでもお金を取らないと逆に疑われるからです。」
今度は父が恐る恐る質問を投じた。
「こんな時刻に、こんな場所で鰻重の出前が取れるなんて、どういう事なのですか?しかも、お給料など、支払われていないのですよね?その調理師かレストランは、何か、神様専用なのですか?そこで働いている人達は、神に仕えて、天使たちの様に絶対従うとか?」
先生は、ころころと笑った。
「とんでもない。今の時刻に営業している店の中から適当に選んだ、この島のごく普通の出前です。この島の人は、誰一人無理をしたり、嫌々働いたりしている者はございません。みんな、好きな時間帯に、好きな時間だけ、好きな仕事をしているのです。朝型の調理師さんもいれば、夜型の人もいます。」
話を聞く義務は果たしたし、聞きたいことも聞いた。それに、これから来る食事はリスクを伴わないと約束されたことから、僕は大分油断してしまっていた。その上、頭の中は、鰻重でいっぱいだったので、そこからの先生の話は何となく聞き流していた。それでも、鰻についてはあまり期待しない様には心がけていた。海外で所謂日本食を食べる機会は以前に比べると増えてきたが、本当においしい物には、めったに出会えなかったからだ。でも、考えてみれば、溢れかえるコンビニやファーストフード店で馬鹿舌の人が増え、食材にこだわって本当の美味しさを追求する店の多くが営業難に追いやられるこのご時世、本当においしい店は日本にいてもそうそう出会えるとは限らない。勿論、大金を払えれば別だけれど。そんな事をぼんやりと考えている間も、母は再び先生を質問攻めにしていた。
「一人暮らしの未成年が暮らすところは、どんな施設が用意されているのですか?お風呂や食堂のある学生寮の様な所が、あるのですか?」
先生は、本当に悪魔なのだろうかと疑いたくなる程の寛容さで、そんな母に、にこやかに対応していた。
「息子さんが一人暮らしをお望みならば、一人用の住まいを選んでいただけますし、他の若者との同居が良いなら、年齢層、趣味や生活スタイルなどに合わせたシェアハウスもご紹介できます。学生寮の様に大掛かりな施設はございませんが、家事・炊事が苦手でしたら、寮母さんの様な、お世話好きの方の家に、他の人と下宿の様に住むことも可能です。長期滞在出来るホテルなんかもあります。田舎の一軒家を丸々使う事も出来ますし、都心のマンションタイプの住まいもあります。丸太小屋もあれば、カプセルタイプの部屋もございます。兎に角、より取り見取り。その物件が空いていれば自由に使っていただけるし、もし自分の好みにぴったりな物がなければ、一番近い条件の物件を選んで、改築してもらえばいいのです。もし、夢に見ていたドリーム・ハウスがおありなら、建ててもらう事も可能ですが、その間には他の物件で我慢していただくことになります。
お風呂でしたら、日本のスーパー銭湯の様な所もあれば、小さな銭湯もありますし、全ての住まいには基本お風呂場とトイレが付いています。そして、島には地学実験の一環で、温泉も湧いています。
お食事でしたら、勿論自炊することもできますし、外で食事を済ますことだって可能です。レストランにケータリングやテイクアウト、屋台も数えきれないほどありますし、料理教室やアトリエに参加したり、漁師や狩人について行って、一緒に獲った獲物を食べたりすることもできます。料理研究室の試食会、フェスやコンクールなんかも頻繁に催されています。農家に遊びに行って、チーズや搾りたての牛乳を分けてもらう事もできます。大抵の若者向け娯楽施設には、お食事処などがあって、栄養士さんたちが、どれだけ若者受けが良くてバランスのとれた健康食を作れるかに熱を燃やしていらっしゃいます。正直この島では、食いはぐれる事はほぼ不可能です。」
母は、熱心にふむふむと聞いていたが、ボソッと一言洩らしたのを誰も聞き逃さなかった。
「なんだか、素晴らしすぎて怖いわ。」
それを聞いて、院長先生は、初めて悪魔の本性を仄めかす薄い刃物のようにクールで鋭い笑みを浮かべた。それは、文字通り身の毛もよだつ笑みで、先程睨まれた時より格段に怖かった。
「お母様は、本当に人間らしい方ですこと。どんな状況でも疑ってかかる。」
あわあわとしている父と僕の横で、母は赤くなって弁明に走る。
「大事な息子の事ですから…」
その様子がおかしかったのか、先生はふふっと楽しげに笑い、元の寛容な表情に戻り、しかしちょっと意地悪気に付け足した。
「大丈夫ですよ。そんな事ぐらい、神はお見通しです。その為に私は、島の住民を呼ぶだけではなく、出前を持ってこさせるのです。新たな人物を紹介した所で、実は天使の偽装ではないか、など疑われるだけですので。目に見えて、手に取れて、口に入れられるものなら、疑う余地はありませんものね。」