神の社会実験・第26章
電話があったその日の夕方、僕は裏口から店に入って行った。大将には断ってあったので驚かれはしなかったけれど、心配された。僕は約束の時間までにバイロンから聞いた事を説明して、大将の考えを聞いたり、起こりうることを想定して打ち合わせをしたりして過ごした。大分ギターも上達していて、音楽活動に専念している出前の男性はその日も来ていなかったし、店も割と空いていたので助かった。
彼女は約束の時間通りにやってきた。大将に案内されて僕の待つ奥の個室に来た彼女は、この日も黒いレースの手袋をはめて、喪中の貴婦人の様な出で立ちをしていた。僕を見ると微かに微笑み、つばの大きな黒い帽子を取って向かいに座ると前回の無礼を詫びた。
「気にしなくてもいいよ。誰だってくさくさする時はあるし、きっと君には何か辛い事があったんだろう。」
「君じゃなくて、プリヤンカ。プルーって呼んで。実は、その事であなたを呼んだの。あなた、まだ島に来て5年なんですって?しかも、今は新聞記者。だから、あなたなら分かってくれると思ったの。」
「何を?」
プルーは深々と溜息をついた。
「私、辛いの。毎日毎日、自己嫌悪と罪悪感で押しつぶされそう。あなたも知っているでしょうけど、この島の外はありとあらゆる地獄の苦しみに溢れているわ。それなのに、お金と言う制度さえなくなれば、全世界がこの島の様になれることを知っていて、何もしようとしない私たちは、人としてどうなの?」
「どうって…神様と約束したんだから、しょうがないだろ。」
それを聞くと、プルーは相当がっかりしたように項垂れた。彼女は一体、僕に何を期待していたんだろう。僕らの気まずい沈黙を察して、大将がお茶とメニューを持って来てくれた。僕が遠慮なく一人でお茶を堪能していると、プルーも諦めたようにお茶を飲んだ。彼女の愛らしい唇を覆う、赤黒い口紅の武装が湯呑に付いた。それを見て僕は、迂闊にもその武装を全部剥がした素の唇を想像して、ちょっとだけどきっとしてしまった。慌ててお茶の香りと湯気の温もりに集中して、平常心を保つ。これは、僕の島での将来を破壊されるかもしれない会談なのだ。スケベ心を出している場合ではなかった。そうしていると、プルーもお茶の温もりに勇気づけられたのか、毒づいてきた。
「約束ですって。そうやって逃げるのは簡単よね。みんな、二言目には神様、神様って言うけど、本当にいるかどうかも分からないじゃない。」
この発言には驚いたけど、そういえば島で生まれたプルーは悪魔や天使にあった事がないのだろう。
「逃げるっていうか、神様の実態がどうであれ約束したのは事実だからね。それに申し訳ないけど、外の世界の問題はお金さえ廃止されれば全てよくなるっていうほど単純じゃない。仮に僕らが今出て行って、皆さん今日からお金を廃止しましょうなんて言っても、外の世界の人間は誰も相手にしてくれないと思う。信じられないかも知れないけど、それぐらい外の人間はお金が好きだし社会ももう2千年以上前からお金なしでは回らないようになっているからね。更にもし、明日からいきなりお金を廃止したら、地球は大混乱になると思うよ。それこそ物資の奪い合いで核戦争が起きるだろう。」
僕はその時、この島に来る前に訪れた自堕落な島国の事を思い出していた。神聖な筈のモスクでお互いの履物を盗んだり、ラマダン中でもトイレの中で食べれば神には見つからないなどと言い張ったり、兎に角人にも神にも何の尊重心も恥も持たない国民。明日いきなり全てが無料なんてことになったら、あの国はたちまちカオスに陥り、翌日には滅びているだろう。それに、たとえもっと真面な国で実施されたとしても、それを実現できる政治体制、インフラや枠組みが全く整っていない状況でいきなりと言うのは、絶対に成り立たない。政治体制を変えるには、国民による革命か政治家の説得が必要だけど、政治家は金で動いているから後者は絶対に不可能だ。後は世界規模の自然災害などよっぽどの事態が発生してお金が機能しなくなる位の事がないとお金は無くならないだろう。この島で着々と神の実験が成功した理由は、既存の(金ベースの)システムのない真っ新な場所で始まり、小規模で多少なりとも島民になるには人選があり、カネでもコネでも学歴でもなく、向き不向きとやる気で役割を分担するロジカルかつ合理的社会で、しかも神(具体的には悪魔や天使)のサポートがあってのことだと思った。その上、神の掟ではなくて島民の決め事で、この島では皆、運動エネルギーを供給する事になっている。全てが無条件で無料という状況は、やはり生理的に受け入れがたいのだろう。
「君の志は尊いけれど、」
と前置きをした上で、そう言った僕なりの見解を説明してみたが、プルーはみるみる怒り出した。
「じゃあ、何!私はこのまま、人生に何の意味も見出せないまま、神様のペトリ皿の上で言いなりになって大人しく腐っていろと言うの?」
何なのだ、この人は。良心の呵責に苛まれていると言いながら、結局己の人生に満足できない、ただの無い物ねだりだったのか。僕と同い年位だと思っていたけど、ディルセの忠告通り大分見かけより若いのかもしれない。僕が呆れていると、大将が助け船を出してくれた。
「まあまあ、お嬢さん。ちょっと落ち着いて。折角この店に来てくれたんだから、何か出しましょうよ。何がいいかな?鰻重?蒲焼?」
プルーは大きな青紫色の目を吊り上げ、きっと大将を睨み付けて怒鳴った。
「いらない!生き物を食べるなんて野蛮だわ!」
それを聞くと、大将はやれやれと首を振ってお説教を始めた。僕は未だにヒヤッとするけど、これは島民は皆対等かつ店側も代金をとらない故の遠慮なさというこの島の条件では珍しくもない光景だ。
「野蛮だって。私からしてみれば植物だって立派な地球生物なのにさ。お嬢さん、植物が何も感じないと思っているでしょ。まず、そこから考え直してくれないとなあ。植物だって動物と一緒で、生き延び、増えるために進化を遂げてきたのだよ。つまり、彼らにとっても取って食われることは脅威なんだ。まあ、植物の中には他の生物に食べられることを利用して種を運んでもらうように果実を実らせるものもあるけど、果実の全てがそう言った目論見で作られている訳ではないし、葉っぱや根っこなんかは完全に想定外だよね。
でも、論理は別として、顔が付いている物を食べたくないっていう気持ちは分かる。そして地球の、この島の外では肉や魚の食べ過ぎで色々と問題が起こっているのも、分かる。でも、もし地球人全員が菜食主義者になったら、それはそれで別の面から環境問題が出てくるんだよ。例えば、栽培が困難な植物が食べつくされたり、需要の多い植物を栽培するための農地を確保するために自然が破壊されたりね。これは私の見解だけど、問題は食べ過ぎや無駄の多すぎという点にあって、雑食として進化した生物は大人しく雑食でいるのが、全てのバランスにおいて一番いいと思うんだけど。」
プルーは、ぐうの音も出ないらしく、仕方なくフンとバツの悪い横顔をみせた。大将は、少ししょうがないなあと言う声音になって、それでも容赦なくとどめを刺した。
「因みに私の鰻養殖は勿論この島の全ての漁業や畜産と同様、環境・人権・魚や家畜の衛生面の全てにおいて無害だし、鰻に関してはこの島でさばき切れる分よりずっと多くを自然に帰しているのだから、多少なりとも鰻の絶滅を防いでいるともいえるのよ。よそなら兎も角、この島でこんなこと言う人がまだいるなんて、驚きだなあ。」
そんな事を言いながら大将が厨房へ下がると、すぐにじゅうじゅうと油が焼けるいい音がして、香ばしい匂いを漂わせてきた。それから間もなく、僕には蒲焼とビール、プルーには小さな器に盛ったタレご飯にお新香と山菜のお吸い物を持って来てくれた。
「お嬢さんに出した物は全部ビーガンだから、一口ぐらいは食べてみてくれないかな。口に合わなければそれまでだけど、端から拒絶されると傷つくよ。」
そう言うと、大将はこっそり僕にウィンクして(非常に上手だった)、再び厨房に下がって行った。
プルーはふて腐れたように箸を取ると、言われた通りに一口タレご飯を口に運んだ。素直に従った所を見ると、悪い子ではないようだ。そのまま箸を置いてだんまりを決め込むかと思いきや、大きな目をさらに見開くや否やお新香やお吸い物も全て、一気に全部平らげてしまった。どうやら想像以上に美味しかったらしい。当たり前だろ!大将の80年間にわたるこだわりの結晶だぞ!と、僕は自分の手柄でもないのに内心勝ち誇って、極上の蒲焼とビールを堪能した。勝利のスパイスは、また格別だった。