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神の社会実験・第8章

そもそもの発端は、人間の祈りだった。神は宇宙全体から、言葉のある物もない物も、全ての存在からエネルギーを常に感じている。それは当然と言えば当然で、何故かと言えば宇宙は神のエネルギーからできた物だから。神は幾つもの存在に宿った自分のエネルギーを感じ取り、また宇宙に存在する全ては神を感じている。本来ならそうなのだが、人間の場合はそれが極端に傾いてきている。神は依然として人間のエネルギーを感じ取れるが、人間は文明が進み、自然から己を隔離して生活するようになり、神のエネルギーを感じなくなっているようだ。

不安になった彼らは、言葉を覚えてからは毎日、毎晩、感じられなくなった神にその存在の証明を求め、祈るようになった。更に文明が進むと、祈りは徐々に文句に変わって行き、その文句は日に日に欲に塗れて下らない物が多くなっていった。神は何千年もの間、そんな風に募る負のエネルギーを感じ続けて、こう思った。人類は不幸の天才だ。そして、その原因は人間が自分の事を過大評価しすぎている点にある。己の才能や行動力を棚に上げた自己評価から理想の地位や姿だけを妄想し、理想に届いていないと不満がる。それに少し落ち込めば自分の事を凡人だなどと言っていじけ、生きている意味は何かと問う。神は教えてあげたかった。それは人間の世界観の狭さゆえの考えであるということを。

神にとっては、人間の定義する「偉人・凡人」などの差はあまり意味をなさない。更に言えば、神にとって、一人の人の、人類の、いや、この宇宙においての全ての物の存在意義とは、存在することその物なのである。その証拠に、もしも人一人でも、勝手に「消えた」ら宇宙は大変なことになる。それは、人間の考える「死」と言う中途半端な消え方などでは無く、その個体をなしている分子が全て「無」になるという事であるが。そうなったら、その人を形成していた全ての元素たちの所有していた空間を埋めるべく、ブラック・ホールの様な現象が生じ、全ての次元が乱されてしまう。つまり、神にとって、人間やそのほかの生命もまた、有機質・無機質と関係なく、宇宙に存在する他の全ての物と同様、エネルギーを持った元素たちが化学反応し、形成した「進化」の形の一つにすぎないのだ。

ビッグ・バンから始まり、宇宙が生まれ、ある程度安定した元素たちが生まれ、そしてそれらから成り立つあらゆる存在、つまり惑星を形成している鉱物から、地球の様な惑星に生まれた生き物たちまでに神が求めている事は、宇宙の一定の空間を埋め、条件が良ければ反応・発展し、悪ければ元素に帰って他の物になることに他ならない。そしてその行きつく先を、その変化を見るのが神の喜びで、全てを創り上げた意義なのだ。

全ての存在の価値は平等で、ありのままでいて、赴くままに振る舞い、それぞれできることをできる時にしていればいい。石も、木も、人間も、空気さえも。たったそれだけ。だから、人間が己の存在やその人生に憤慨したり、悲観したりする理由は、実は一つもないのだ。その代わり、神が人間のために特別に便宜を図ってやり、気にかけてやる理由もない。神は全ての存在に、その存在のきっかけを作っただけで、後は干渉せずとも、自然界の全ての物同様に、勝手に宇宙の進化の過程で人間が誕生したのだから、特に感謝される謂れもなければ、恨まれる筋合いもないのだ。

それでも自意識過剰でプライドの塊である多くの人間は、地球に命が生まれたのは奇跡の様な確率で、だから命は尊く、特に知恵をもって意識的に発展していく人類(特に自分)は、神に愛された特別な存在だと信じてやまない。そんな風に考えているから、今人類は自分の住む惑星自体を危機に追い込むような事を平気でするのである。そして、また自分たちを不幸にする。
百歩譲って、「命が誕生したのは奇跡」までは、正しいとしよう。しかし、だから命ある物は宇宙上の他の存在よりも尊く美しいかと言ったら、それは間違いである。宇宙が存在していること自体、奇跡の証であり、即ちそこに存在する全ての物が奇跡的で、尊く、美しいのである。その証拠に、無機質な鉱物の中にも、人間はおろか、どんな生き物にも作れないような、神秘的にまで美しい石が地球だけでも沢山ある。1メートル以上にもなる、完璧な結晶たち。光の当たり具合で色を変える、複雑に入り混じった形態の鉱物。ちょっと大きな博物館に行けば、その神々しいまでの宝物たちに、誰もが圧倒されるであろう。しかも展示されているそれらは、人間に発見され、尚且つ取り扱えている物に限られているのである。即ち、この地球、いや、この宇宙には、それらを遥かに超える計り知れないほど素晴らしい宝が、まだまだ沢山あるという事である。

もっと言えば、宇宙から見た地球や、他の惑星その物がどれだけ荘厳に見えることかは、人類にも既知の事実の筈だ。しかし、その垣間見た宇宙の偉大さから受けるべく感銘をも自分たちの手柄としての感銘にすり替えてしまう所が、人間のスケールの小ささである。そして繰り返しておくが、神はそのような小さな生き物の、一偉人なんかに興味はない。神が人間を慈しんでいない訳では決してないが、神からすれば人類の個人差などはドングリの背比べなのである。

大体、始終不満不平ばかりを訴える人間を、なぜ特別扱いしなければならないのか。見かけを愛でるなら、宇宙全体に数々の美しい或いは愛らしい存在がある中、人間に勝ち目は無い。極端に言えば、人類がもし一夜にして地球上から消えたとしても、宇宙から見る地球は相変わらず美しいままなのだ。
しかし、どんなに素晴らしい鉱物に比べても、生き物の方が遥かに複雑だし、大体鉱物はどんなに足掻いても、動いたり生殖できたりする生き物には敵わないではないかと言う人もいるだろう。でも、それは屁理屈だと言われるかも知れないが、なにもかも定義によるのである。何しろ生き物の定義さえ、未だにはっきりとはしていないのだ。自分たちを増やすべく、遺伝子を持つものが生き物と定義するならば、DNA或いはRNAを持って、他の生き物の細胞を乗っ取って増えるウイルスだって、立派な生き物であろう。しかし、自分達の力のみで増えたり、ATPを作ったりできることが生き物の定義とするならば、ウイルスは何に分類されるのであろうか。そして、自力で動いたり繁殖したりできるから生き物の方が凄いというのであれば、ウイルスにはどちらもできないから、生き物と定義をされたとしても、ちっとも凄くはない。例え、一夜にして人類文明を破壊する力を持っていても、だ。

ならば、人間が最も誇る、意識という物はどうだろう。これさえ持っていれば、人間は宇宙に存在する何よりも特別で「偉い」のか。残念ながら、これも定義の問題に引っかかってしまう。そもそも何をもって意識とするのか。それは、人間様特有の発達した脳を使う判断や反応を意識だと断言するのは、いささか危うい。例えば、通勤ラッシュ時の込み合った駅の構内を進む時に、人は自分の判断で最も適切なように「意識しながら」歩いていると思っているだろう。しかし、構内全体を見た時の人々の動き方は、個人個人が他の人にぶつからない様、邪魔にならないように知恵を絞りながら進んでいる筈なのに、何と水の流れを形成している、無機質で意識を持たない水分子達と全く同じ法則に従って進んでいるのである。これは、どういう事なのか。駅の構内にいる半数以上の人々は流体力学なんて言う言葉さえ聞いた事もないだろうから、これは当然、人込みを進む人間が、己の脳を駆使してたどり着いた答えが流体力学の法則であり、それに従って動くことが最も自然だと意識しているからでは、断じてない。と言う事は、いくら自分で意識して考えて行動しているつもりでも、結局人間は自然の法則に従って動いてしまう、宇宙の粒子の一つでしかないという事なのか。

意識を語る上で無視する事ができないのは、脳の役割だろう。大きく発達した大脳は人間が誇る代表的な物だ。しかし、そもそも脳と言う物はどれだけ特別なのか。人間も含めて、脳を持つ生物の行動のどこまでが脊髄反射でどこまでが脳みその判断なのか。カエル(カエルだって、一応脳を持っている)の頭を切断して、体だけを深い容器に入れておくと(これは、実験に脳細胞が必要だったからで、頭を失ったカエルの体がどう反応するかを見るためではなかったのだが)、たまに容器から這い出そうとする個体がある。その様に、頭を失った「脊髄反射」しかない状態のカエルが、ちゃんと上下を判断して、ちゃんと容器の縁を見つけてそこに手を掛けて、容器の外側へ向かっている(つまり、ちゃんと己が容器に入れられていると言う危険な状態にあることを認識して、そこから逃げ出すことを志している)のを見ると、まずそのグロテスクな状態にぎょっとして、次に脊髄でできる「判断」の範疇の広さに驚く。その上、全部の個体が脱走しようとしている訳ではないという事は、頭を切断する前の「活きの良さ」、つまり体力の問題もあるだろうが、それに加えて、己の状況を「認識した」時に「諦める」という「判断」をする個体もあったのではないかとも考えられる。それは即ち、脊髄だけでもそれだけの「思考」を巡らす可能性がある訳で、いくらカエルの脊髄は人間とは違うと言われても、実際に人間だってどれ程脊髄で「考えて」いるのかを考察するにあたって無視することはできない事実である。

そもそも、なぜ意識という物があるのかと言えば、自分の置かれる状態を察知して、その存在を維持し、あわよくば増えるのに最適な状況・環境に向かおうとするためであって、その様に己の存在の可能性を追求する機能は生き物だけではなく、自然界におけるどんな物にでもある。それは言い過ぎではないかと仰る方は、考えてみて頂きたい。

まず、この宇宙の全ての物を考えた時、宇宙誕生から全く同じ状態で留まってきたものは、皆無と言っていいだろう。ビッグ・バンの爆発から生じた原子は、分子となり、粒子となり、それから色んなものに「進化」した。進化がという言葉がしっくりこない人は、変化でも化学反応でもいい。そして、不安定な物は壊れ、壊され、また変化を遂げという過程を繰り返し、やっとある「形」に落ち着いた原子たちは、その形でより安定な方向に変化していった。その形が鉱物であったり、生き物であったりと言う差だけで、結局この宇宙にある物は全て、原子たち落ち着いて存在できる可能性を追求して行き着いた「形」なのである。そして、どんな形に落ち着いた原子にも、そこにたどり着くまでには必ず、「その形の一部になるかならないか」の選択を経ている。それは、詭弁であり語弊があるという人もいると思う。なにせ、「選択」と言う言葉自体、意志を持って選ぶという意味があるから。しかし、化学反応が起きる時には、そこに集まっている原子たちが、その状況においてより良い、より安定なエネルギー状態に落ち着けるから、起きるのである。つまり、反応して分子やそれ以上に複雑な形になる方が「好ましい」時に起きるのだ。それなのに、試験管などで限りなく好ましい条件を用意できても、原子が100%反応するかと言えば、そうではない。同じ原子が、同じ環境にあるのに、なぜこうなるのか。それは、反応しないという選択肢、つまり可能性があるからである。

原子にとって、可能性は無限にある。例えば、炭素は空気中の二酸化炭素にも入っているし、あなた方の細胞にも必要不可欠である。全く同じ原料の炭素が、状況次第で煌びやかなダイヤモンドにもなるし、何の変哲もない鉛筆の芯にもなる。しかも元素の選択肢はそれだけではない。ある特定の状況が続けば、その形はそのまま大きくなり、或いは増えたりする。ダイヤモンドのたとえなら結晶が大きくなったり分裂したりすることだ。そして、ダイヤモンドが高温の炎に投入された時に炭化してしまう様に、周りの状況が変われば、それに応じてまた形を変える。生き物のように複雑な「形」の場合、生まれて育ち、生き延びて、子孫を残して死ぬ。長期で言えば、常に新しい環境に柔軟に対応して進化するか、以前の状況に特化しすぎて対応できずに滅びることになる。

そして、その変化し続ける状況において、常に「好ましい」形に落ち着くための反応の繰り返しの賜物である人間だって、その法則に今なお忠実に従っている。人間や、或いは他に生き物にとっての「感覚」や「意識」とは、平たく言えば原子たちのなす形が複雑になりすぎた為に、その形態の内側の原子が外の環境を察知する機能が必要になり、その機能から得た情報を総合的に処理して適切な反応や行動に移すための物であり、その適切さの判断とは、結局原子が好ましい状況落ち着こうとする方向性の他ならない。大まかに言えば、ただの原子であった時代からの方針を、忠実に受け継いできた物という事になる。それもその筈、「意識」の生理学的・生化学的な仕組みを突き詰めていくと、結局全ては「ただの」化学反応の連鎖でしかないからだ。

それでも自分たちが特別だと考える方々は、「意識」自体が特別でないとすれば、我々人類特有の、創造性はどうだ!と来られることであろう。我々は言葉を持ち、それで表せる思想を持ち、その思想や感情に基づく音楽や、文学や、芸術や、科学や、哲学や、政治など、それこそ他のどんな存在にも類を見ない文明や文化の発展を遂げている。そういった素晴らしい発明ができる才能を持つからには、神に見初められた特別な存在であると言っても差支えないのでは?

残念ながら、それは大いに差支えがある。二本足で進化することになった人類は、目はよく見えて、手を自由に使う事も出来るけれども、速くは走れないし、鼻は利かないし、しかも樹上ではなく地上で、群れになって暮らすという窮地に立った。そういった状況で生き延びるためには、言語を発達することが有利だったのだろう。そして、うまく生き延びる術を覚えた人間は、確かに色々な物を作り上げ、更にうまく生き延びてきた。その延長で、ある能力が優れている者は、その褒美や対価を得て優れていない者達より楽な暮らしができたり、モテたりしてきた。そこで、自分の能力を伸ばす、或いは発揮させることが重要とされるようになり、そうできる者は「偉人」、できない者は「凡人」などと言う区別がされるようになった。しかし、それら創造性の産物はあくまでも人間が仲間をターゲットに作る、即ち人間が己の社会で生きるための方法であって、神にとっては何の意味もない。

人間は、たまたま他の生き物よりも複雑な意思疎通の方法(言語)を発達させたから、手当たり次第「なぜ」と問うてみたり、心のもやもやを言葉にしてみたり、それを他の方法で表現してみたりしているのであって、それができたから他の何よりも特別だという事は、断じてない。動物行動学者のコンラート・ローレンツ先生は、ハイイロガンの雛マルティナと、ガンの鳴き声での意思疎通に成功している。言い換えれば、先生はガンの鳴き方には意味があり、それは言語の様な物だと証明したのだ。その他にも先生は、素晴らしい巣で雌を誘う魚や、稚魚を口に含んで巣に運ぶ途中に、うっかり餌を与えられて戸惑った魚(しかも、その魚はちゃんと稚魚を吐き出して餌を堪能した後にまた稚魚を運ぶという、適切な行動を取って見せた)など、「人間の様な」行動を示す生き物の観察を沢山記録している。つまり、人間以外の生き物が、所謂「高尚な思想や思考」を持たないとは証明されていない。そして、それがどんな物であれ、自分の持つ才能を、自分が(子孫を残すために)社会で成功する術として発揮することは、自然界では決して珍しくはない。それでも人間の作る物は格別に素晴らしいと確信している方々には、水槽一「できる」魚が一生懸命作った傑作の巣や、群で一番モテるフラミンゴが、その魂を込めて求愛のダンスを踊る姿を見て頂こう。それらを見て、こんなに素晴らしい事ができるのだから、これこそ神に愛された生物であると思えるのなら、神はきっとあなた方の事もそう思ってくださっているのでしょう。

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