神の社会実験・第16章
僕ら一家が改めて恐れ入っているところに出前が来た。持ってきてくれた島の住民は、何と日本人の様だった。二十歳くらいの若者で、程良く日に焼けていた。体育大の生徒の様な細マッチョの体を、非常にお洒落なジャージの様な服に包み、ドレッドヘアを綺麗な黄色と緑のバンダナでまとめていた。その服装はちょっと馴染みがなかったが、顔は確かに見慣れた邦人のものだった。ちょっとだけ、お笑いのテツandトモの動く人の方に似ているなんて思っていると、彼は実に日本人的に院長先生に深々と頭を下げ、お久しぶりです、と言った。院長先生もにこやかに会釈を返すと、彼は僕らにも軽く一礼し、早速僕らが座っているソファの前の低いテーブルに、素早く出前の品を並べ始めた。レゲエ風のラフな格好からは、ちょっと想像できない程、実に丁寧に手際よく、漆塗りのお盆に、同じく漆塗のお椀、お重、箸などを並べ、最後に湯気の立ったおしぼりを置くと、さっと一礼してまた出て行こうとした。どうやら、僕らと話をすることは聞かされていない様だった。先生が呼び止めると、驚いたように振り返り、
「一人前でしたよね?」と尋ねた。
「そうです。ご足労、感謝いたします。ついでにお時間があれば、こちらのご家族に貴方の経験をお話ししていただけないでしょうか。」
「自分なんかの話で良ければ、喜んで。では、ちょっと大将に連絡してきます。」
そういうと男性は一旦廊下に出て、何やら携帯電話の様な物で手短にお店の人に説明しているようだった。そして、戻ってくると院長先生に勧められるまま、僕らの掛けているソファの斜め向うの肘掛け椅子に腰を掛けた。腰の低い人だけど、せせこましさは感じさせない、心にゆとりのある人特有の雰囲気だった。
「まずは、冷めないうちにお召し上がりください。さっきまで生簀で泳いでいた最上級の鰻を炭火で焼いて、大将自慢のタレをふんだんに絡めてあります。おいしいですよ。」
勧められるまでもなく、その香しい匂いは重箱のふたを取る前から部屋に充満していて、僕の期待を極限まで高めていた。うわー、僕たち今、悪魔に鰻重奢られている!などと考えながら、いそいそと蓋を開けると、もう、たまらなかった。「頂きます」の挨拶もそこそこに、僕は箸を付けた。見るからにふっくら香ばしく焼けた、艶のある鰻の身に箸を沈めると、ほろりと解けた。たっぷりのタレに染まったホカホカでピカピカの白米と一緒に箸を持ち上げると、何と鰻が二層入っていた。少しふうふうと冷まして口に含むと、もう夢心地だった。新鮮な鰻だけが出せるフワトロの触感から、魚の濃厚な油が蕩けだし、上品な濃さのタレと米の甘みと絡み合い、絶妙な味わいを完成させていた。鰻・カラメル化したタレ・炊き立ての新米に程よく炭焼きの香ばしさがブレンドされた、至極の風味が湯気と共に鼻を抜ける。思わず目を閉じ、咀嚼して、飲み込んでからも思い切り鼻から息を吸い込んで、最後の後味まで味わいつくしてしまった。それは、正しく最高級の鰻重だった。鰻に限らず、こんなに衝撃的においしい物を僕は食べたことがなかった。一気に食べ進みたい衝動を必死に抑え、お膳を母に渡す。
「母さん、食べてみて。」
それだけ言うと、あなたがもっと食べなさいと言う母の手に、無理やり箸を押し込んだ。
母は、一旦箸を置き、添えられていた、木製ひょうたん型の山椒壺を手に取った。蓋を外そうとしていると、出前の男性が、それは山椒ミルです、と教えてくれた。ひょうたんの上の部分を捻ると、カリカリといい音がして、挽きたての山椒の香りが鼻孔をくすぐった。母は、小さく頂きます、と手を合わせると、一口分を口に運び、瞳孔を見開いた。そして、じっくりと咀嚼して飲み込むなり、すぐに父に向って、あなた、大変よ!と言い放ち、僕がしたように、箸を父の手に押し込んだ。父も、ただ事ではない様子の僕たちを横目で伺いながら、小さく頂きますを言って、箸を付けた。そして、僕ら同様一口含むなり、あまりの美味しさに動揺していた。
「うまい!こんなに美味しい鰻重は、初めてだ。鰻重どころか、今まで食べた何よりも美味しいかもしれない。」
母と僕は、うんうんと頷きあい、そんな僕らを院長先生と出前の男性は満足そうに眺めていた。再び僕が箸を取り、大体三等分に分けてから、今度は自分の分け前を思う存分貪っているうちに、母はお椀を手に取っていた。蓋を開けると、これまた素晴らしい出汁と爽やかな三つ葉の香り。母は椀にそっと口を付けると、シンプルなすまし汁の肝吸いを静かに味わった。幸せそうな溜息を漏らしているあたり、相当美味しいと分かる。僕ら一家は我を忘れて、順番に鰻重を食べた。肝吸いも、お新香も、この上ない素晴らしい味わいで、一人前の鰻重は、三人で分けても十分な食べごたえだった。
夢中で食べ終えた僕らが至福の余韻に浸っていると、前とは別の天使が、今度は四人分の日本茶を運んできてくれた。感動的に美味しい鰻重の後だから幾分感銘に欠けていたけれど、やはりとても美味しいお茶だった。陶芸に詳しくない僕には何焼きかは分からないけど、大きさと言い、手触り、デザイン、口当たりと、全て申し分のない湯呑を手に収め、出前の男性が語りだした。
「お気に召されたようで、嬉しいです。大将も喜んでくれるでしょう。さて、自分の経験をお話しするのは良いのですが、どこから話したらいいのでしょう?」
「そうですな、この島に来られた経緯から、この島の生活、様子など、あなたの印象をお聞きしたい。高校生の息子を、安心して任せられるところですか?」
父がこう切り出すと、男性が答える前に、院長先生が立ち上がった。
「私は、向こうでお待ちしています。私がいることで、この方が本音を言えないのでは、などと勘繰られては大変ですから。それでは、ごゆっくり。」
そういうと、院長先生は音もなく部屋を出て、微かな芳香を残してドアの向こうに消えた。